Michael Pisaro / Greg Stuart - A wave and waves (Cathnor) 和文

マイケル・ピサロの2007年の作曲「A wave and waves」をグレッグ・スチュアート(パーカッション)の演奏で具現化したCD作品が、まもなく英国のCathnorレーベルからリリースされる。

この作品は、100種類のパーカッション(あるいはパーカッション奏者100人)のために書かれたもので、パート1とパート2に分かれている。ここで使われているパーカッションの音の種類は、サンドペーパーやブラシで石をこする音、米粒や種や小石などを様々な素材(石、セラミック、ガラス、プラスティック、金属、木)やマリンバ等楽器の表面に落として出した音の他、マリンバ、ヴィブラフォン、ゴング、ベル、ピアノを弓や棒でこすって出した音、ギターの弦をはじく音など、主に物がぶつかったり摩擦を起こす際に生まれる非常に微かな音で構成されている。スコアには、「すべての音は極めて柔らかい音であること。音は、一粒の砂(あるいは水の分子)としてのイメージをもち、他の音と合わさることで、より大きな模様と堆積を形成していくような印象を生む」とある。

パート1は「一つの波」。パート2は「より小さな100個の波」。各々のパートの長さは各35分で、2つのパートの間には4分間の間(サイレンス)が入る。どちらのパートも、冒頭1分間の沈黙の間の後に、音が始まる。

□パート1: A world is an integer.

このパートは、20秒を一単位とした100のセクションで構成されている。各楽器の音の開始時間は、スコアのチャートに記されている。各音の持続時間は20秒か、指示によってはその倍数分の長さとなる。音は、安定した変わらない音であることが条件で、クレッシェンドやデクレッシェンドは使われない。

1分間の間の後、静寂の中からおぼろげに姿を現すように、ヴィブラフォンの音板を弓で弾いた柔らかい中音が入る。サイン音に似たピュアな響きを放つその音は、やがて後から現れた石をすりあわせるノイズに引き継がれるかのように、静かに消える。さらにマリンバやゴングを弓で弾いて出した複数の違う音程の音も現れ、シンバルなどの微かな金属音の背後で静かな和音を形成し始める。「an unrhymed chord」に見られたように、ソフトな音同士が重なる際に倍音の共鳴が微かな揺らぎを生む様子や、音とノイズが重なり合って微妙な和音を形成していく過程が、非常にデリケートで美しい。やがて次第に、金属や木皿など様々な素材の上に米粒や種や小石の雨を落として出す音や、サンドペーパーの摩擦音、ドラムセットの各部を弓で弾いた音など、多様な音がそれぞれに違うタイミングで現れたり消えたりしながら、さらに複雑な音の層を形成していく。

一つ一つの音が、(粒子のように)非常に小さくソフトな音量なので、複数の音が重なり合っても、「100種類のパーカッションの音」から連想される騒々しいイメージや重い印象は全くなく、常に音の中心に深い静けさがある。グレッグ・スチュアートの各音の扱いはとても慎重かつデリケートで、音同士が決してぶつかり合わず、同じ柔らかさと静けさをシェアしながら調和を保って動いていくような印象を生んでいる。一つ一つの音が、自然界の中から誕生した小さな命のように感じられるのも、スチュアートが生む音ならではの美しさだ。

様々な楽器を弓で弾いて生まれた柔らかいピュアな響きの音程は、「一つの波」の水平的な広がりとゆっくり進んでいくイメージを彷彿させ、様々な素材の上に米粒や種や小石の雨を落として生まれる垂直的な小刻みの音は、波の内側のミクロの世界で起きている小さな水の動きや泡立ち、渦などのイメージを彷彿させる。これらの異なる質感を持つ音の数々が、全体の音風景にリアルな立体感と遠近感を与え、はるか遠くから、音もなく静かにゆっくりと寄せてくる波の動きを見ているような印象を生んでいる。と同時に、銀河で微かな光を放つ星たちが、次々と現れてはゆっくり移動しながらすれ違い、やがてまた暗闇に消えていくのを眺めているかのような、不思議な浮遊感もある。

時間の経過と共に、一つの音が別の音へと重なりながら推移していき、全体を構成する音の種類が徐々に変化していく。が、その推移はあまりにも自然で微妙なので、知らぬ間に音楽がゆっくり回転しながら違う側面を見せていくような感じがある。それぞれの音自体の音量が上がっているわけではないのに、音同士の共鳴から生まれる小さな揺らぎが次第に大きくなり、様々な種類の音が次第に複雑に重なっていくにつれ、音楽が次第に膨らんでいき、やがてゆっくりと波のように大きくうねり始める。どれだけ波が大きくなっても、混沌とした音の渦には陥らず、常に厳かな静けさと落ち着きを保っているのが素晴らしい。静かに降り注ぐ流星群のような音の波にじっと耳を澄ませていると、様々な音程やノイズの集まりの背後から、時折かすかな和音(ハーモニー)がおぼろげに聴こえてくる。

曲の終わりが近づくと、複雑に拡散していた音は再びまばらな音へと収縮していき、金属板の上に小さな破片がからから落ちるような音を最後に、静寂が訪れる。この40秒間の間(サイレンス)では、それまで様々な音の共鳴音が生んでいた和音の残像がまだ脳に残っている。

□パート2: A haven of serenity and unreachable.

このパートは、音によって生まれる100個の波で構成されている。ライナーによると、ピサロは海岸で実際の波を数時間かけて観察し、波が生まれてから20秒後に最高潮に達し、その後波が崩れて消えていくまでに10秒かかること、一つ前の波が生まれてから20秒後に次の波が生まれること、7つ目の波が他の波よりも大きいことなどを発見したという。ここでの音の発生の仕方は、ピサロが体験した実際の波のサイクルを再現すべく、10個ずつの異なる音で構成されたグループ6つが、1グループずつ続けて音を出し、6つの波が立て続けに生まれる。前のグループが音を出したら、20秒後に次のグループが音を出す。それぞれの「波」は30秒間持続させる。(つまり、一つの波と次の波は、10秒間重なることになる。)その後、残りの40個の音が同時に音を出し、7つ目の大波を生む。すべての音は持続音で、非常にソフトな音(パート1と同じ音量)で始まり、徐々にクレッシェンドで音量が上がり、頂点で丸い山を形成した後は、ゆっくりデクレッシェンドで消えていく。

ここでは、パート1に見られたような、パーカッションの様々な音同士の共鳴が生む揺らぎ(波)に加え、演奏する音自体の音量を変化させることにより、本物の波のダイナミクスをリアルに再現している。パーカッションの100のパートから出る様々な音が、異質な音であるにも関わらず、一つの巨大な有機体のように調和している。次々と現れる音の波は、それぞれ微妙に違う音の組み合わせで構成され、大きさも実際の波のように毎回違う。各音の音量の増減の推移は、非常にゆるやかで自然であり、低周波から高周波までの幅広い音が様々に交差しながら波を形成していく流れには、あたかも大自然の猛威が迫り来るような凄みがある。手を伸ばせば、小さな音の粒に触れられそうな立体感を出している録音とミキシングのテクニックも素晴らしい。様々な方向からじわじわと音が押し寄せてくるような印象が、単に聴覚だけでなく、皮膚感覚にも直接訴えかけてくる力を生んでいる。もし、マルチ・チャンネルのスピーカーを部屋のあちこちに配したサラウンド・システムでこのパート2を聴いたら、おそらく本物の波に飲み込まれるような錯覚を体験するのではないかと思う。

ここでも、グレッグ・スチュアートは見事な手腕を発揮し、自然な波のダイナミクスを再現しつつ、音楽全体が生きた命をもつ存在として呼吸し成長しているかのようなオーガニックな印象を生み出している。次々と新しい音が加わり、別の音が消えていく際の音風景の微妙な推移は、あたかも万華鏡をゆっくり回しながら少しずつ変化していく模様を眺めているように美しい。エンディングが近づくにつれ、音の層は次第に薄くまばらになっていき、引き潮のように、波がゆっくり遠のき小さくなっていく。屋根を打つ静かな雨音のようなパーカッションの音で、曲が終わる。そして、40秒間の静寂。


どちらのパートも、壮大なスケールの時間の流れの中で、粒子のように細かい音の数々が様々な組み合わせの音の層を次々と作り出し、音楽の様相を静かにゆっくりと変えていく。全編を通して、音の中にも静寂があり、音の前後の間(サイレンス)には、音の予感と残像がある。静寂の中から生まれた音の波が、最後に再び静寂の中に吸い込まれて消えていく、その静かで自然な推移が美しい。

各35分間という時間の流れの中で、100種類のパーカッションの音が、どのようなタイミングで入って消え、他の音とどのように重なり、それが結果としてどのように「波」のダイナミクスを形成するのか。それらを最も自然な流れと完ぺきな音の配置により、音楽として誕生させるには、どうしたらよいか。そうした要素のすべてを念頭に、マイケル・ピサロは、本物の波の観察に基づいて生まれた「無数の小さな音の集合体で再現する波」を実現すべく、徹底した緻密な計算によるスコアを完成させた。そして、ピサロが作り上げた「波」の緻密なデッサンの上で、グレッグ・スチュアートは、その波のイメージの細部に至るまでの繊細な配慮と完ぺきな音の演奏により、最も自然で繊細かつダイナミックな動きを見せる波の「命とエネルギー」を注ぎ込んだ。計算され尽くした音の構成であるにも関わらず、人為的な印象を全く感じさせない自然さは、いつもながらのピサロ作品らしく素晴らしい。「A wave and waves」は、作曲家と演奏家の感性と才能が崇高な形で融合した壮大なコラボレーション作品だ。



■新たな領域 ー 何かと何かの中間

「July Mountain」や「A wave and waves」等、最近のマイケル・ピサロ作品に見られる目覚ましい勢いは、作曲家ピサロ自身の尽きることのない才能と著しい成長を反映しているように思える。静かな波のように次から次へと生まれるその創造性は、絶えず多様化し、深まり、前進を続けているようだ。まばらな音がもたらす微かな揺らぎと独特の質感をもつ静寂の間で構成された優雅なほどにシンプルで静閑な音楽から、複雑な音の厚い層が大波のように押し寄せるダイナミックな音楽まで、ピサロの音楽は、新たな新譜が出るたびに、リスナーに新鮮な驚きを与える。

マイケル・ピサロの音楽の魅力は、一見シンプルでまばらな音で構成された作品が、深遠で豊かな音楽体験をもたらす一方、一見騒然とした無数の音の厚い層で構成された作品が、静寂と落ち着きを含んでいるように感じられることだ。ピサロの作品では、静寂が音を含み、音が静寂を含んでいる。その静けさは、現実と「どこか別の世界」との中間、あるいは覚醒と眠りの世界の中間に浮かぶ半透明のおぼろげな像(それは倍音の共鳴が生む小さな揺らぎと重なる)を見ているかのように、意識を新たな領域(何かと何かの中間)へと導く。

もちろん、音楽について感じることは人それぞれに違うし、私がここに書いてきたことが、他の大多数の人の心にも同じように共鳴するとは限らないだろう。でもそれはおそらく、大きな問題ではないと思う。一番大事なことは、音楽というものが、音と静寂により我々の知覚に直接働きかけ、個人を激しくインスパイアし、それまで眠っていた想像力を目覚めさせ、深遠で多様な美を体験する機会を与えうる魔力的な力を秘めているということである。ここでえんえんと文章を書き続けてきた私の行為は、ある音楽の魔法が一人の人間をインスパイアし続けて一つの創作(私の場合は執筆)に向かわせたという、ほんの一例にすぎない。(過去10年間に、音楽にインスパイアされて長大な文章を書きたいという気持ちに突き動かされたことは皆無で、自分はもう音楽について文章を書くことなどないのではないかと思っていた。こうして再び音楽について文章を書きたいという情熱を取り戻せたことは、とても貴重な体験だった。その点でも、ピサロ氏の音楽に深く感謝したいと思う。)

マイケル・ピサロの音楽がもつ魔法を解き明かすために、その深遠を探求し続けたこの3ケ月は、深い森の中にどこまでも踏み込んでいくような密度の濃い体験だった。広範囲に渡る音楽について広く浅く書くよりも、一つの音楽についてどこまでも掘り下げられるだけ掘り下げていくようなアプローチの方が、個人的に私は好きだ。一つの音楽を、狭く深く垂直的に掘り下げてみて初めて見えてくるものの価値を愛している。ピサロの音楽を集中的に探究し続けた過程において、その音楽の奥に存在する小さな美をたくさん見つけたように思う。それらは、木陰にそっと置かれた小さな宝石のように、気づかずに通り過ぎてしまうような控えめで静かな存在ではあるが、確実に本物のピュアな光を放っていた。それらを見つけた時、それがどんなに美しい光を放っているか、音楽のどこにその宝石が隠れているのかを、私なりの言葉で文章に書いてきた。いつかどこかで、私がこの音楽から受けてきた感動体験と似たような体験を求める誰かが、その宝石の存在に気づいてくれたらと願いつつ。

この音楽の魔法の秘密を、私は解き明かすことができただろうか。まだまだ何か、私の気づいていない深みが隠されているような気もする。いずれにしても、この多作の(すでに80曲以上の作曲作品を残した)作曲家が、その天才肌の頭脳で次にどんな画期的な作曲を思いつくのか、それは永遠に解き明かせない謎のままだろう。特に近年、マイケル・ピサロの音楽は、2006年に始まったパーカッション奏者グレッグ・スチュアートとの密接なコラボレーションを通して、より創造的かつダイナミックになり、深みと広がりとパワーを増してきたように思われる。ピサロの作曲の機微を隅々まで理解し、それらを繊細なテクニックで音に具現化できる理想的な演奏家を得て、ピサロの作曲がどのように発展していくのか、そして彼らのコラボレーションが今後、どのように互いをインスパイアしあい、どのような作品を創造していくのか、とても楽しみだ。