Michael Pisaro / Barry Chabala - black, white, red, green, blue (voyelles) (wm17) 和文

マイケル・ピサロとバリー・チャバラのカセットテープ作品『black, white, red, green, blue (voyelles)』(wm 17)には、ピサロの2004年の作曲『black, white, red, green, blue』をチャバラがエレキギターで弾いたソロ演奏(A面60分4秒)と、そのチャバラの同じ音源の上に、ピサロが後からテープのヒスノイズ(空のテープを再生した時に聴こえる高周波のノイズ)とサイン音を重ねたリミックス版(B面60分20秒)が収録されている。この作品のスコアには、全体の曲構造と各音の音程は記されているが、ギターの音が入る正確なタイミングと詳細は、演奏者が自由に決められるよう空白になっている。タイトルの『black, white, red, green, blue』は、ランボーの詩『母音(Voyelles)』の冒頭の一節からつけられたもの。マイケル・ピサロの音楽に魅了されたのは、この作品を聴いたのがきっかけだった。

■A面: black, white, red, green, blue (2004年)   1:00:04

最初のパートでは、エレキギターとは思えないほど柔らかく丸みのある静かな音が、ゆっくり鐘を打つような一定の間隔を置いて、強弱の異なる和音とその余韻を響かせる。同じようなギターのストロークでありながら、一音ごとに少しずつ強さと音量が違う。長い沈黙が入った後、再びギターが今度は遠くから聴こえて来るようなおぼろげな音を、30秒ほどの沈黙の間をはさんで響かせる。これも一音ごとに、音程や強さ、音量が違う。一音ごとの最後の余韻と静寂が重なる瞬間に、心の中が真っ白になるような美しさがある。

長い沈黙をはさんで、次のパートに入ると、ギターの音はがらりと響きを変える。中盤には、突然ギターの力強いストロークが、短い間をはさんで、くっきりした低音を響かせ始める。それまで遠くの風景をぼんやり眺めていたような感覚から、いきなり目前の風景に呼び戻されたかのような、立体的な刺激がある。また、あるパートでは、柔らかな光を思わせるギターの単音が、強弱の変化をつけながら、ブーメランが弧を描くように近づいては遠のき、聴き手の意識を現実からわずかにずれた空間へと誘い込んでいく。まるで自分の中の時間感覚がゆっくり引き延ばされていくような不思議な浮遊感がある。

静寂とギターの音がゆっくり交錯し、ある瞬間には一つに重なり、音と静寂との親和感を次第に強めていく。力強い音が鳴っている時でも、消え入りそうな微音が鳴っている時でも、音の中には常に静寂が含まれている。音が鳴っている時も、静寂に音が吸い込まれた後も、耳は同じようにそこにある「何か」を聴いているような気がする。

なんといっても、バリー・チャバラのギターが素晴らしい。柔らかく控えめなギターの音色には、深く内省的な響きと荘厳さがあり、エレキギターでこれほど繊細な表情を出せるものなのかと驚かされる。余計な色合いや装飾を一切つけず、あたかも彼自身が静寂の一部になったかのような静けさを保ちつつ、詩の韻を踏むような思慮深さで、音そのものの純粋な響きを放つ。バリー・チャバラは、『an unrhymed chord』のグレッグ・スチュアートと同様に、ピサロの音楽を非常に深く理解しつつ、ピサロのミニマルな作曲に隠された微妙なニュアンスを驚くほどの繊細さで表現できる稀な演奏家だ。

■B面: voyelles (2009年)  1:00:20

  • バリー・チャバラ(エレキギター、録音) ※A面の演奏と全く同じ音源。
  • マイケル・ピサロ(サイン音、サンプリング、ミキシング、マスタリング)

このB面を聴く前に、A面のチャバラのソロギター演奏を何度も繰り返し聴いた。両者の音楽が、ピサロの音の参加により、どんな風に違って聴こえるか比べてみたかったからだ。

ここでピサロは、未使用の古いテープから集めたという様々な種類のヒスノイズを、未加工のままか、あるいはフィルターを通して加工した音に変え、それらを複雑に重ねたサンプリング音を作り、サイン音と共に、チャバラのギター音と静寂の上に重ねている。そのサンプリング音は、時には洞窟を吹き抜ける風の音のような乾いた響きを放ち、時にはひそやかに降る雨音のように響き、増幅された重低音から可聴音ぎりぎりの微音まで、テープのヒスノイズとは思えないほど多彩な表情を見せる。

ピサロのサンプリング音とサイン音は、チャバラのギター音のもつ厳かで内省的な雰囲気を終始壊さず、背後の静寂と同化するかのような透明な響きを放ちつつ、ゆっくり音のニュアンスを変えていく。この知覚できるかできないかのぎりぎりの所で変化していくサンプリング音とサイン音の微妙さがとても印象的だ。もし、沈黙にひそむ「聴こえぬ音」を形にするとしたら、こんな音になるのかもしれないと思わせるほど、その音は静寂と溶け合っている。そのためか、A面のチャバラのギターソロを聴いていた時に感じたのと同じ静寂が、ここでも不思議に保たれている。むしろ、ピサロのサンプリング音やサイン音が重なることで、チャバラのギター音により深みと広がり、表情の豊かさが感じられるような気がする。

ピサロは、このリミックス版で、沈黙のもつ様々な質感やそこに潜在する変化やうねりを、「ヒスノイズ」という我々が日頃沈黙と共に聴いているノイズのサンプリング音とサイン音を使って見事に表現している。呼吸をするような自然な流れで音をゆるやかな変化へと導いていく、そのデリケートな手際が素晴らしい。


どちらのバージョンも、とてもミニマルでシンプルな音楽なのに、何度聴いても飽きず、毎回何かしら新鮮な発見がある。そして聴くたびに、どこか違う時間が流れる場所に迷い込んだような心地よさに包まれる。

母音のもつ音の響きが呼び起こす様々な色彩のイメージをランボーが詩で表現したように、この作品では、そうした豊かな視覚的イメージが、時には消え入りそうな淡い光の色合いとして、時には強い光を放つ鮮やかな色合いとして、ギターの音の微妙な変化で表現されている(それを表現したチャバラのギターは珠玉)。曲を構成する5つのパートも、じっくり聴いていると、各々のパートが違う質感の色を放っているかのように思えてくる。

ピサロの作曲にみられる「沈黙」は、聴き手を圧迫する息苦しさや、張りつめた緊張感はなく、呼吸をするように自然に存在する。それは、周囲のノイズを排他的に拒絶するような沈黙ではなく、そうした環境ノイズも沈黙や音楽の一部であるかのように包容し、演奏される音と沈黙と周囲のノイズが、親和的に共存できるような沈黙だ。先日、ニューヨークでこの2人のギター・デュオ演奏をライブで聴いた時にも、同じことを感じた。演奏中、かすかな音すらも聴覚が捉えてしまうほど非常に密度の濃い静寂が部屋に広がっていたにも関わらず、外から聞こえる電車の音や、階上の部屋を歩く人のくぐもった足音などが、けっして邪魔な雑音には聞こえず、不思議に彼らの音楽の静寂と融和していたのが印象的だった。同じように静寂の間が長く入るライブ演奏の場では、逆に周囲のノイズが浮き上がって居心地悪く聴こえることが多いので、その違いに驚いたのを覚えている。

Sachiko Mや中村としまる、杉本拓らの日本の演奏家が音楽に取り入れる「静寂」を、「禅」の境地と結びつけたがる評論を海外でたまに見かけるが、それは違うと思う。Sachiko Mや中村としまるの静寂は、自己のアイデンティティと真摯に向き合い、自己の存在の深淵に降りていく際に生まれる静寂だと思う。それは禅とか無我の境地とはむしろ逆に、どこまでも自分自身を掘り下げてその最も深淵な部分に近づき、その深淵を通して宇宙と結びつこうとするような静寂である。自己をみつめる純粋さと真摯さゆえに、あの緊張度のきわめて高い静寂が生まれるのだろう。一方、杉本拓の場合は、おそらく自己のアイデンティティの確認であると共に、音楽や静寂に対する彼自身のこだわりや拒絶、危機感、アンチテーゼといったステートメントが、彼自身の生きる姿勢の現れとして、その音楽の静寂に含まれているように思う。そして、安穏と定着してしまいそうなものを切り裂いていくような無音のエッジが、常にそこに含まれている。ラドゥ・マルファッティの場合は、静寂が自己の強い表現と結びついていると同時に、自我を離れた中立的な境地からも、普遍的な存在としての静寂を表現しているように思う。それは、自我を貫く姿勢と無我の境地という、一見相反するものを同時に含む不思議に凄みのある静寂だ。

マイケル・ピサロの静寂は、これらのどれとも違う。ピサロの場合は、静寂を通して自己のアイデンティティを表現するというよりも、むしろ自我を離れた透明な媒体として、音(演奏される音だけでなく、環境ノイズも含めて)と静寂と聴き手を、最もシンプルで自然な形で結びつけているような気がする。その自我を離れた媒体としての透明感こそが、他の誰とも違うピサロの音楽の個性なのではないかと思う。(この媒体としての透明感は、村上春樹の文体にも通じるものがある。)ピサロの音楽においては、音と沈黙は対立するものではなく、音は沈黙を含み、沈黙は音を含んでいる。ある意味では、「禅」の境地に最も近いのではないか。ピサロの音楽を聴いている時、そこに音楽が存在するにも関わらず、静寂に身を浸している時の心境をそのまま保っていられる理由は、そのためかもしれない。


詩や芸術作品と同じように、音楽のエッセンスは、この宇宙(あるいは空気中)に見えない形で存在している。誰かが沈黙の中に存在するそのエッセンスに気づき、詩や芸術作品や音楽としての形を与えたならば、そこに詩や芸術作品や音楽が誕生する。マイケル・ピサロは、そうした沈黙の中に存在するエッセンスを見つけ、その機微を損なわぬようにデリケートに扱いつつ、何の不純物も付けない最もシンプルで純粋な形で音楽を生まれさせることができる稀な音楽家ではないかと思う。


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