文章を書くという行為


北杜夫の娘斎藤由香さんが、以前『サンデー毎日』誌上で父の躁うつ病について語った時の話が、ある人のブログに載っていた。
http://blog.so-net.ne.jp/bookend/2007-04-30

「しかし、伯父(斎藤茂太)や父(北杜夫)は、どんな人も気持ちを病むことはあって、歯医者に行くように『今日、精神科に行ってきます』と自然に病院に行けるようになってほしいと願っていました。」

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離人症について考える時、学生の頃に斎藤茂吉の短歌の行間に感じた、深い沈黙の溝のようなものを思い出す。「絶句」という言葉を連想させるような、頭の中が一瞬真っ白になってしまう体験にも似ているが、茂吉の短歌の行間に感じたものは、そうした劇的なものではなく、とても静かで哀しいものだった。哀しみと言っても決して感情的に押し寄せる波のような悲しみではなく、存在そのものの哀れさというか、あがくことをやめた後の諦めというか、ふとそこに静かに漂う空気のような、音も形も時間もない静的で無機的な哀しみだ。

もう10年以上前になるけれど、離人症というのを初めて体験した時期、自分がかつて強い愛着を抱いていたものを手にとってみた時に、自分とその物体との間に感じた奇妙な「距離感」(空間的な距離感だけでなく、過去の自分との時間的な距離感も含めて)は、斎藤茂吉の短歌の行間に感じた「沈黙」に似ていると思った。

地理的な理由もあったので偶然というわけでもないのだけれど、当時通っていた精神科は、斎藤茂吉の一族が経営している病院だった。精神病院というよりも、アメリカの郊外にあるこぢんまりした一軒家という佇まいで、医師やスタッフもどこか家庭的で、その温かい雰囲気がとても好きだった。待合室には古い洋館風の丸みを帯びた窓があり、そこから見える木々の緑が、いかにも武蔵野という風情を出していて、その部屋のソファーに座っているだけで心が癒される気がした。

私の主治医だった先生は、茂吉氏の孫にあたる精神科医で、診察で顔を合わせるたびに穏やかな声と笑顔で、「相変わらず文章は書けていますか」と私に尋ねた。その先生も仕事の傍らに雑誌などに文章を書いていて、文章の話になると先生の方がつい夢中になって話が止まらなくなり、それだけで診察時間が過ぎてしまうこともあったけれど、「文章を書く」という共通の行為について会話を交わすそうした時間が、私にとっては前向きで穏やかな心を維持する上で大きな支えになっていたと思う。ことあるごとに「文章さえ書けているなら、あなたは大丈夫ですよ」と言ってくれたその先生の言葉が、当時は何よりの治療になっていたと思う。


今でも気持ちが不安定になったり、意味もなく落ち込んでしまったりする時、文章はまだ書けているだろうかと自分に問う。何かに対する強い愛着を抱いた時、その愛着が消えないうちに文章や写真に残しておかなければ、その愛着はまたある日突然消えてしまうかもしれない。その時に訪れるあの「沈黙」を再び体験するのが怖い。でも、誰のためでもない自分のための文章が書ける間は、多分大丈夫だろうと安心することにしている。