Wandelweiser派の音楽と即興演奏


先日、ある欧米の即興演奏家と話していた時に、その演奏家が「即興演奏には柔軟性と自由さがあるが、Wandelweiser派の音楽はリジッド(堅苦しく窮屈)だ」という意見を述べた。それを聞いた時、「いや、私はそうは思いませんよ」と即座に反論したのだけど、そこで私の意見を述べたらおそらくえんえんと議論になりそうな気がしたので、その場ではあえて言わなかった。が、その時に言えなかった反論の言葉がずっと頭の中でくすぶっているので、ここで文章にすることにした。ただし、ここで述べることは、あくまでも私個人の考えであって、それが正しいとか優れているとかいうことではない。人は皆、異なる美意識と異なる価値観を持っているし、それでは平等に尊重されるべきで、どの価値観が正しくてどの価値観が間違っているというような判断はすべきではないと常日頃思っている。即興演奏には即興演奏の良さと美意識があり、Wandelweiser派の音楽には彼らの(といっても作曲家によって様々に異なるが)良さと美意識がある。ここでは、あくまでも私個人が、演奏者ではなく聴き手としての立場から、今なぜ即興演奏ではなくWandelweiser派の音楽に惹かれるのかということに焦点を当てたいと思う。

本題に入ると、その演奏家が言った「柔軟性」と「自由さ」、そして「堅苦しい窮屈さ」というのは、あくまでも演奏者としての立場から発せられた意見ではないかと思う。作曲家が譜面上に記した決まり事(特定の音を特定のタイミングや方法で演奏する等)のみに従って演奏する…というのは、ある意味で演奏者が自分を表現する自由をほぼ完全に奪われた状態ともいえる。自分の内なる「声」を即興演奏で表現することを常とする即興演奏家にとっては、それは確かに「堅苦しく窮屈」だろう。

それでは、聴き手側の体験という視点から見た場合はどうだろう。演奏者ではなく一人のリスナーである私個人としては、これはむしろ逆だと思う。私にとっては、時には即興演奏の方が聴き手にとってはある意味で窮屈であり、Wandelweiser派の作曲作品の方が、より柔軟で自由だと感じる。この数年、即興演奏というものに興味を感じられなくなり、作曲作品の方に魅力を感じるようになり、さらにWandelweiser派の作品を聴くようになってからは、そこに私が求めていた音楽への明確な答えがあると感じた。ただ、なぜ即興に興味を持てなくなったのか、なぜ今Wandelweiser派の音楽に惹かれるのか、その具体的な理由は自分でもうまく説明できなかった。そんな時に、その答えを明確に提示してくれたのは、杉本拓氏による論考「二つの世界」だった。(この論考がフリーペーパー『三太』に掲載されたのは5年前で、私も手元に持っていたのだけど、実は最近拡大コピーするまでじっくり読んでいなかった。)

即興演奏の多くは、演奏者自身の個人的な自我と嗜好と方向性に基づいている。「自我」を可能な限り切り離した即興演奏というのもあるが、それでも演奏者の「声」というのは、(たとえば自我を出さないという主張として)その奥に根づいている。ある即興演奏家は、自己の存在を深く見つめてそこから生まれる音を探り、ある即興演奏家は、政治的なステートメントを音に託す。何をどう演奏しようが、それは演奏者の自由である。無限に広がる選択肢の中から音を選び、音を投じる。そして聴き手は、そうして投じられた音を受け手として聴く。

そうした即興演奏のあり方と、それを聴く聴き手としての自分との関係に、以前はとても興味があった。その興味が薄れてきたのは、即興演奏を聴くことが「音」そのものを体験するというより、「演奏家」の自我を体験することのように思えてきたからである。以前は、演奏家の自我を体験することを面白いと思っていた時期もあった。一人の演奏家の個人的なあり方を深く掘り下げて生まれた演奏を聴くことにより、それを介して、人間全般あるいは自然界全体に潜む真理につながる何かを体験したような気がしたこともあった。しかし、それでも演奏家個人の「声」や主張や嗜好が、ある時期から「音」そのものの純粋なあり方を曇らせているように思えるようになり、「音」の可能性を束縛するしがらみのように思えるようになってきた。即興演奏を聴いて「窮屈」だと感じるようになったのは、そうした理由からだと思う。聴き手としては(あくまでも私個人としては)、その演奏家の個人的な歴史とか自分探しとかトラウマとか政治的ステートメントといったものには、実のところあまり興味がない。むしろ、演奏される「音」そのものの純粋な響きと、その「音」を聴いて自分がどんな体験を得るか、そうしたことに興味がある。その興味を満たしてくれたのが、私にとってはWandelweiser派の音楽だった。


前述の「Wandelweiser派の音楽はリジッド(堅苦しく窮屈)だ」という意見に反論せずにはいられない理由は、Wandelweiser派の音楽こそが即興演奏のリジッドな側面から、音そのものの自由さと柔軟性を取り戻してくれた音楽だと感じるからである。それは同時に、「聴き手にとっての自由さと柔軟性」とも言える。たとえば、Wandelweiser派のアントワン・ボイガーの作品をライブ演奏(ドミニク・ラッシュのソロ演奏)で聴いた時、長い沈黙の合間に投じられるシンプルでミニマルな音が、周囲の環境音を克明に浮き立たせ、「演奏される音も環境音もそれらに耳を澄ます観客も、すべてが平等に存在すると同時に、この空間を超えたあらゆる場所で起きている出来事の数々も、同じ時間を共有することで繋がっている」という啓示のようなものを受けた。あれは自分と世界との繋がり方への概念を根本的に変えるような、目からウロコ的な大きな出来事だった。余談になるが、「アントワン・ボイガーの音楽が苦手」という人は、おそらく(いわゆる音響派の音楽のリスナーの聴き方にありがちな)演奏される音にのみ全神経を集中している場合が多いのではないかと思う。演奏される音だけに耳を全力で傾けるというよりも、演奏される音もサイレンスも環境音も(自分自身のあり方すらも)含めて、その場で起きているあらゆる現象を同時に(聴覚だけでなく)すべての感覚器官をオープンにして体験する…という姿勢で臨めば、Wandelweiser派の音楽の良さを体験するのはそう難しくないことだと思っている。

また、ラドゥ・マルファッティの作品の演奏を先日ウィーンの録音セッションで聴いた時は、トロンボーンの先端を微かにこすっただけの微音が、ある長さの沈黙の間の後で、あたかも生まれて初めて耳に飛び込んできた音のように立体的に、新鮮に聴こえた。マイケル・ピサロの作品を聴いた時には、音と音の関係から生まれるハーモニーの(あらゆる無駄を取り払った)純粋な響きと可能性、そしてハーモニーが生む魔法のような現象を最もシンプルな形で体験すると同時に、それまで気づかなかった自然界に存在するハーモニーというものにも初めて気づかされた。

それらの体験が可能だったのは、すべてこれらの音が演奏者の自我を完全に離れた「音」あるいは「ハーモニー」そのものの純粋な形として提示されたからだろう。「音」というものに対してそれまで持っていた先入観や、当然のごとく受け入れていた付随物が、彼らの演奏ではすべて排除されている。つまり、「音」そのものを純粋な形で聴くという、日常ではもはや不可能になってしまったことを可能にしてくれたのが、Wandelweiser派だった。


先月ウィーンに滞在していた時に、ラドゥ・マルファッティがとても面白いことを言っていた。人間というのは、自分でも知らぬうちに様々な「癖」や「傾向」というものをいつの間にか身につけているもので、日常的に気づかずに同じ行為を繰り返していることに気づいていない場合が多い…という話だ。たとえば、歯を磨く時に、歯の上下左右のどの部分から磨き始めるかといったように。ラドゥ・マルファッティは、そのことに気づいて以来、毎日意識的に、自分がいつも行っている手順とはあえて違うやり方で、日常的な物事を行うようにしているという。たとえば、体を洗う時に、いつも自分は左腕から洗い始めていることに気づいた時は、あえて右腕から洗い始めるように変えてみる…といった風に。「慣れ」から生まれて知らぬ間に身についてしまう「癖」や「傾向」を、そうやって毎日、意識的にリセットするように心がけているという。

即興演奏においても、同じことがいえるのではないだろうか。即興演奏者は、あらゆる可能性のある無限の選択肢の中から、自らその場で演奏する音を選ぶ。そうしているうちに、知らぬ間に、その演奏者ならではの「癖」や「傾向」といったものが、演奏される音に不随してしまっているのではないかと思う。それは、演奏者にとっては、最も自分らしく個性を発揮できる快適な環境作りをしている結果かもしれない。でも、そうした「癖」や「傾向」というものを、演奏者自身が気づかなくても、敏感な観客やリスナーは感じ取っているのではないだろうか。私自身、即興演奏を聴いていて、どこか馴れ合い的なマンネリズムを感じてしまったり、「待ってました!」とばかりに挿入される「その演奏者ならではの音」が常套句のように聴こえてしまって、興味を持てなくなってしまった理由は、そのためかもしれない。

もちろん、Wandelweiser派が「音」というものを最も純粋な形で提示しているとはいえ、そこには各々の作曲家の個性というものが介在している。しかしそうした作曲家の個性は、あくまでも「音」の提示の仕方に現れているのであって、多くの即興演奏に見られるような「音」そのものにしがらみや癖や傾向として付着してしまう個性とは違う。そこには、演奏者の個人的な自我も主張も(政治的ステートメントも)なく、「音」は演奏者個人のあり方から解き放たれ、しがらみという見えない糸を断ち切った状態で、虚空に浮かぶ。(確かにWandelweiser派の音楽をライブで聴いていると、あたかも3D映像を見ているかのように、目の前の空間にぽっかりと音が浮かんでいるような錯覚を覚えることがある。)彼らが主役の座を演奏者自身から「音」へと譲り渡した時、音は「音」本来がもつ自由と可能性を取り戻したのかもしれない。


Wandelweiser派の作品を、たとえばライブで聴いた時、観客の一人一人はおそらく様々に異なる体験を得るのではないかと思う。ある観客は、退屈なだけで特別な体験は何も得られないかもしれない。ある観客は、極めてシンプルな形で提示された音から、人生を変えるほどの啓示を得るかもしれない。また、その時には何の体験も得られなかったある観客は、5年後に同じ作品を別の機会に聴いた時に、前回とは全く違う衝撃的な体験を得るかもしれない。そうした個々のリスナーを待ち受ける体験の幅広さには、無限の可能性と柔軟性がある。私がWandelweiser派の音楽が決してリジッド(堅苦しく窮屈)ではなく、むしろ自由さと柔軟性をもつ音楽なのだと思うのは、そうした理由からである。