Michael Pisaro - Harmony Series 11 - 16 (EWR 0710) - Part 3 和文

先月出たマイケル・ピサロとグレッグ・スチュアートの新譜「July Mountain」(eg.p05)を初めて聴いた時、この音楽がもつとてつもないパワーに圧倒された。それは今までに聴いたことのない、センセーショナルなほどパワフルで美しい音楽だった。それ以来、この音楽について書きたくてうずうずしている。が、この2週間ほど、ずっと毎日聴いていた「Harmony Series 11 - 16」の静かな余韻がいまだに心から離れないので、「July Mountain」の評に進む前に、このシリーズについてまだ書ききれていないと思うことを書き足すことにした。

ある音楽に心が魅了された時には、その音楽の素晴らしさを隅々まで文章にしないことには、その魔力から抜け出せない。深い森の中に、今も自分がすっぽり包まれているような気がする。マイケル・ピサロの音楽空間は、私にとってはどこまで探求してもまだまだ深みが続く、無限に広がる果てしない森のようなものなのだ。


■Michael Pisaro - Harmony Series 11 - 16 (EWR 0710) - Part 3 和文

「Harmony Series 11 - 16」では、とても小さな出来事が、音楽の至る所で起きていて、その微かな変化が、音楽に魔法のような効果を与えている。それは実際には魔法などではなく、音楽の構造に基づいて起きている理論的な結果なのだが、マイケル・ピサロの作曲では、そうした音の変化の提示の仕方が非常にナチュラルでシンプルなので、理論というよりは詩的なニュアンスとして伝わってくる。その微妙な細部に耳を澄ませて1曲1曲じっくり聴いてみると、各々の曲のスコアの冒頭に記された詩のニュアンスが、音楽の中に浮き上がってくるのが感じられる。

マイケル・ピサロの作曲では、スコア自体があたかも音楽そのもののような美しさをたたえていて、詩と演奏の指示を読んでいるだけでも、そこから音楽が聴こえてきそうなイメージの喚起力がある。スコアの冒頭の詩をじっくり読んで(時にはその空白からも)浮かんでくるイメージが、どのように音楽に反映されているのかを聴くのも、このシリーズを味わう上で非常に奥深い体験だと思う。

□1曲目:曲番16a  Where there is  (3:48)

5人の演奏者は、各々1つの音程を選び(どんな音程、どんなチューニングを選ぶかは自由)、その持続音を終始一貫して使う。5人の演奏者は、その音を一人ずつ決められた順番で演奏する。最後の演奏者が音を出したら、全員でそのままの音を10秒間維持し、止める。これを1セットとして、何セット演奏してもよいが、各セットの間には沈黙の間を入れること(間の長さは自由だが、毎回長さを変える。)このCDでは、3セット演奏されている。ここでの演奏者は、ジョニー・チャン(バイオリン)、マーク・サバト(バイオリン)、ジェイムス・オーシャー(ハーモニウム)、マイケル・ピサロエレキギター)、グレッグ・スチュアート(パーカッション)。

最初は単音のみで始まり、やがて2つめの音が重なり、3つ目の音が重なり、4つ目の音が重なり、最後には5つ全部の音が重なってハーモニーを形成していく過程の、音同士の倍音の共鳴がもたらす微妙なニュアンスが、ソフトな音量の中でクリアに表現されている。単音で鳴っていた時には、ゆるぎない一つの音程として聴こえていた音が、他の音と重なった瞬間、倍音の共鳴の影響を受けてかすかに薄れて揺らぐ。次々と和音が形成されていく過程で、各々の音の個性が徐々に半透明になっていくかのように感じられる。あたかも5つの色が混ざり合って識別不可能な色のにじみを生むように、豊かで複雑な層をもつハーモニーを生む過程が美しい。

音が鳴っている時も、沈黙が続く時も、柔らかい質感の空気がそのまま保たれ、5つの単語だけで構成されたロバート・クリーリーのミニマルな詩のつぶやくような静けさと共鳴している。そして「非常にソフトで、非常に澄んだ」音質とゆっくりしたテンポが、その微妙な変化をより一層際立たせている。和音形成における音の揺れや変化の機微を最もシンプルな形で浮き上がらせた見事な作品だ。

□2曲目:曲番11a   Zwei Finger im Abgrund (2:20)

演奏者の数は3人。曲の長さは、約2分間。演奏者1は、短い1つの音程あるいはノイズを選ぶ。4分音符のメトロノームの速さは30〜40(かなりゆっくりしたテンポ)。4分音符を2つ出した後に4分休符が1つ入り、長い間をはさんで、再び4分音符2つの後に4分休符が1つが入る。演奏者2は、長い間の後に、かすかに音程のある長い持続ノイズを出す。演奏者3は、曲の初めから終わりまで、極端にソフトな、比較的高めの純音(とても澄んだ音)を出し続ける。ここでの演奏者は、グレッグ・スチュアート(パーカッション)が1人で3つの音を出している。

冒頭から終わりまで、サイン音を思わせる柔らかく澄んだ高音が貫く中、木製打楽器の音が2つ、ゆっくりした間をはさんで2回鳴ると、その瞬間、それまで揺るぎなく安定していたサイン音が、ふと消えそうになり、かすかに揺れてたわむような変化を見せる。さらに、後半にカウベルのようなカラカラと鳴る連続音が加わると、サイン音の揺れや音量の変化がより大きく感じられ、音楽がゆらゆらと前後上下に揺れ始めたような印象を与える。

スコアに記されたポール・セランの詩にある「不安定なものにしがみつく」「2本の指が深淵で鳴る」「世界が揺れる」といった言葉から連想されるイメージと、音楽の揺らぎと変化がぴたりと合っている。グレッグ・スチュアートが「an unrhymed chord」で表現した、倍音の共鳴による揺らぎが音楽に与える魔法のような効果が、わずか2分20秒の中に表現されている。

□3曲目:曲番12a  is  (20:10)

演奏者の数は2人。1人は持続音を出せる楽器で、もう1人は用意されたCDから音を出す。詩の構成が、7+7+3+3+7という27節に区切られているのに対応して、曲では「間」をはさんだ27個のセクションが5つのグループに分けられている。どのセクションでも、基本的に2人の演奏者が同時に音を出す(例:音同士を重ねる、音の始まりと終わり、あるいはどちらかを同じにする、または音同士がほとんど重ならないなど自由)。時には、1人の演奏者のみが音を出してもよい。各セクションの間には、「間(サイレンス)=短くても長くてもよい」が入る。音の各グループの間には、長い「間」が入る。楽器の音の音程、チューニングは自由だが、最長20秒間音を出し続けていられること。すべての音は、非常にソフトで、とても澄んだ音であること。

電子音を演奏する演奏者は、用意されたCDに入っている27個の音素材(周波数の違う2つのサイン音)を1音ずつ、沈黙の間をはさんで再生する。再生する音の順番は自由。同じ音は合計3回以上使わないこと(CDに入っている音を全部使う必要はない)。再生する音の長さは、10秒から2分の間で自由に決める(CDに入っている各音の長さは2分30秒。)再生中やトラックを変える時、CDの音をフェードアウトする時には、外部からの無関係な音が入らないように注意する。左右のスピーカーは、楽器演奏者の片側に設置する。ここでの演奏者は、キャスリン・ピサロオーボエ、イングリッシュ・ホーン)とマイケル・ピサロ(サイン音のCD再生)。

ここでは、オーボエの音の倍音の共鳴の影響を受けて微かに揺らぐサイン音と、倍音を生まないサイン音の影響を受けずにストレートに単音を貫くオーボエの音との対比が面白い。オーボエの音程とサイン音の音程が近いほど揺らぎの幅が大きくなり、各々の音程が離れるほど揺らぎの幅は小さくなる。倍音の共鳴の強弱が音楽の揺らぎを微妙に変える様子を見事に示している。ソロのように揺るぎないオーボエの音色の背後で静かに揺らぐサイン音の、デリケートで柔らかい質感の音がとても印象的だ。(サイン音というより、ギターの音のような丸みのある響きだ。)

オーボエとサイン音のデュオが、沈黙の間をはさみつつ、シンプルな継続音をゆっくり重ねていくプロセスは、スコアに記されたロバート・ラックスの、「is」という単語のみが27行続くだけの詩がもつミニマルなシンプルさ、純粋性、直接性、規則性、空白の沈黙を思わせ、瞑想がもたらす心の安らぎと、永遠を思わせる素朴な美しさを生んでいる。そして、毎回音程の違う継続音のデュオが生み出す様々なニュアンスのハーモニーは、27個の「is」の前後の空白に入るかもしれない単語と、それにより形成される架空の文の数々がもたらす意味の可能性とバラエティ(それは前後の単語の組み合わせ次第で、ほぼ無限の可能性をもつ空白ともいえる)を示唆しているようで、興味深い。

□4曲目:曲番13  The shipwreck of the singular (5:03)

曲の長さは5分間。5人の演奏者は、低周波から高周波までの5つの持続可能なノイズを、冒頭0秒から曲の終わりまでの5分間、出し続ける。音量は、ほとんど聞き取れない音(ピアニッシモ)と、弱いがクリアに聞き取れる音(ピアノ)の2種類の強弱が使われる。5人の演奏者の音の強弱の変化のさせ方は、スコアに図で示されている。最も低周波よりの演奏者は、冒頭から終わりまで「弱いがクリアに聞き取れる音」で演奏し、その他の演奏者は、出だしは「ほとんど聞き取れない音」で始まり、時間と共に、低周波よりの演奏者から順番に「弱いがクリアに聞き取れる音」へと一人ずつ音量を上げる。音の出だしと終わりは、とてもクリアで正確であること。ここでの演奏者は、グレッグ・スチュアート(パーカッション)が1人で5つの音を出す。

冒頭、ざらついた感触のパーカッション音が、ゆったりした波線を描くように静かに鳴り始める。5つの音は冒頭から同時に鳴っているのだが、他の音の音量がピアニッシモなので、最初はそれらの存在にほとんど気づかない。が、やがて時間の経過と共に、2つ目以降の音の音量がピアニッシモからピアノへと上がり、それまで隠れていた他の音が一つずつ浮き上がってくる。一方、音が一つまた一つと聴き取れるようになるにつれ、新たに生まれる倍音の共鳴が、全体の音の揺れに拍車をかけていく。

スチュアートの演奏は、ざらりとしたパーカッションの波打つような音で耳を惹きつけつつ、単一の音から複合体の音へと、次第に大きく揺れ始める音楽の中で共鳴が徐々に増幅していく過程を見事に表現している。その手際はとても微妙でデリケートなので、新たな音が増えていくというよりも、気づかぬうちにいつのまにか単一の音が集合体へと膨らんでいく…という印象を与える。その自然な流れが美しい。ピアニッシモからピアノへと音量がわずかに上がるだけで、音楽の表情がこれほど大きく変わるものなのかと驚かされる。

スコアに記されたジョージ・オッペンの詩にある「心を奪われ、当惑させられる」「たった一つの難破船」「我々は大勢でいることの意義を選んだ」という言葉が示唆するように、孤独がもたらす悲惨な末路に目を覆いつつも、孤立の静けさに心を惹かれる、それでも集団でいることから得られる安心を選んだ…という詩の含みとダイナミクスが、パーカッションの音の質感、曲の展開とぴたりと合っている。最初は1艘の船のみが浮かんでいた波間に、やがて1艘また1艘と別の船が浮かび上がり、最後には5艘の船が、より振り幅の大きなダイナミックな波にもまれながら一緒に揺れている情景が、リアルに眼前に浮かんでくるようだ。

□5曲目:曲番14   A single charm is doubtful (13:53)

演奏者の数は4人。4人とも持続的な音を出せる楽器であること。曲の長さは13分。演奏者1は、非常にソフトな中音域の音程を、とても長く(最長4分間)演奏し、長い沈黙の間を置いて、同じ持続音を繰り返す。演奏者2は、7つの長い持続音(30〜60秒)を、スコアに示された音程の推移の仕方に従って演奏する。(最初に出す音程は自由に選べるが、次以降の音程は「半音下がる→1音上がる」というように指示に従う。)音のチューニングは演奏者に任せる。7つの各音の間に入れる沈黙の間の長さは自由。演奏者3は、半音または一音ずつ下がっていく26個の音(各音の音程はスコアに指示)を演奏する。同じ音程が繰り返される箇所では、微分音の変化をつけることが望ましい。演奏者4は、中音域で始まる非常に長い音程(最長3分)を、3回演奏する。各音の音程は、毎回少しずつ下がっていき、音と音の間には長い間を入れる。ここでの演奏者は、ジョニー・チャン(バイオリン)、ジェイムス・オーシャー(ハーモニウム)、マイケル・ピサロエレキギター)、マーク・ソー(ピアノ)。

各々の音が、ゆったりしたテンポで静かな持続音を投じていく中、長い間をおいてピアノの一音一音が入ると、そのたびに音楽が一瞬、波のようにかすかに揺れる。この倍音の共鳴がもたらすハーモニーへの影響と、音同士が重なる時に音の個性が半透明になる感じが、この曲では非常に繊細に美しく表現され、音楽全体に半覚醒状態のようなまどろみ感を生んでいる。そして、曲の要となるピアノの音程が、時間の経過と共にゆるやかに下がっていく変化が、ガートルード・スタインキュビズム風の詩が放つ不思議なバランス感(読んでいくうちにチューニングが微妙に少しずつ狂っていくような感覚)とぴたりと合う。

ガートルード・スタインの詩は、言葉や文の意味により感情や思考を表すのではなく、極端に単純化・抽象化された言葉の断片を並べることにより、「言葉」そのものが呼び起こす視覚的イメージと、言葉の連なりのリズムから生まれる音的イメージにより、強いインパクトと純粋な美しさを生む。音そのもののシンプルで純粋な響きと、音同士の共鳴がもたらす揺らぎの美しさに焦点を当てたこの曲は、そうしたスタインの詩の美しさと見事に共鳴している。このCDに収められた曲の中で最も美しい作品の一つだ。

□6曲目:曲番15   No longer wild (6:03)

演奏者の数は6人。うち、5人は持続的なノイズ音、1人は持続的な音程。曲の長さは6分。5人が出す5種類の持続的なノイズ音は、低周波から高周波まで様々な周波数帯の音(中心周波数として聞き取れる音がある範囲に入っていること)であること。演奏者6は、ほとんど聴き取れない、とても澄んだ、比較的高めの音程を6分間出し続ける。全員の音は、冒頭から同時に入り、6分間持続させる。音量は、ほとんど聞き取れない音(ピアニッシモ)と、弱いがクリアに聞き取れる音(ピアノ)の2種類の強弱が使われる。5人の演奏者の音の強弱の変化のさせ方は、スコアに図で示されている。ここでの演奏者は、グレッグ・スチュアート(パーカッション)が1人で5つの音を出している。

最初は5つの音のうち4つがピアノ(弱いがクリアに聴き取れる音)で始まるため、音全体が共鳴の影響を受けて振り幅の大きな波のように揺れている印象がある。が、時間の経過と共に、一音また一音とピアニッシモ(ほとんど聴き取れない音)へと音量を下げていくにつれ、それまで集合体の中にいた音が一つずつ消えていき、その度に音全体を揺らしていた波が小さくなっていく。最後の1分間は、すべての音がピアニッシモになり、音楽はほぼ直線的に安定した音となって終わる。音の揺れが次第に大きくなっていった4曲目とは、逆の構成だ。

ノイズ同士の共鳴が薄らぐにつれてハーモニーの揺れが小さくなり、雑然とした音の集まりの中に次第に秩序が生まれていく曲の展開は、スコアに記されたウォレス・スティーブンスの詩が語る「テネシーの丘に丸い瓶を置いたら、それまで丘を取り囲んでいたとりとめのない荒野が、すっくと立ち上がって瓶の周りに広がり、もはや荒野ではなくなった」という、知覚の対象の変化が周囲の風景の印象をがらりと変えてしまう様子を見事に表現している。

□7曲目:曲番12d   the best thing (16:13)

演奏者の数は2人。1人は持続音を出せる楽器、もう1人は用意されたCDに入っている音を再生する。詩の構成に対応して、パートA(4+3+1+1+1)とパートB(2+1+2+2+2)という区切りのある19のセクションを演奏する。どのセクションでも、基本的に2人の演奏者が同時に音を出す(例:音同士を重ねる、音の始まりと終わり、あるいはどちらかを同じにする、または音同士がほとんど重ならないなど自由)。時には、1人の演奏者のみが音を出す場合もある。パートAでは、常にサイン音が先に音を出す。パートBでは、常に楽器が先に音を出す。各セクションの間には、「間(サイレンス)が短く、または長く入る。パートAとパートBの間には、非常に長い「間」が入る。楽器の音の音程、チューニングは自由だが、最長20秒間音を出し続けていられること。すべての音は、非常にソフトで、とても澄んだ音であること。

電子音を演奏する演奏者は、用意されたCDに入っている19個の音素材(周波数の違う2つのサイン音)を1音ずつ、沈黙の間をはさんで再生する。再生する音の順番は自由。同じ音は合計3回以上使わないこと(CDに入っている音を全部使う必要はない)。再生する音の長さは、10秒から2分の間で自由に決める(CDに入っている各音の名が朝は2分30秒。)再生中やトラックを変える時、CDの音をフェードアウトする時には、外部からの無関係な音が入らないように注意する。左右のスピーカーは、楽器演奏者の片側に設置する。ここでの楽器演奏者は、キャスリン・ピサロオーボエ、イングリッシュ・ホーン)とマイケル・ピサロ(サイン音のCD演奏)。

3曲目と基本的に同じ構成だが、スコアに記されたロバート・ラックスの詩(パートAの問いにパートBが答えるという形)に対応するかのように、前半のパートではサイン音奏者が先に音を出し、後半のパートでは楽器(ここではオーボエ)が先に音を出す。オーボエが鳴っていない時には、揺るぎなくストレートに響いていたサイン音が、オーボエの参加により微妙に揺らぎ始め、時には新たに別の音程が出現したかのように複雑なハーモニーを生む。オーボエの音が消えると、サイン音は再びストレートな響きに戻る。この微妙な変化が美しい。3曲目と同様に、ロバート・ラックスのミニマルでシンプルな詩の空気感と見事に合致している。

□8曲目:曲番11c   Sonnenfern (2:29)

演奏者の数は3人。演奏者1は、曲の冒頭から終わりまで、低い音程をとてもソフトな音質で、演奏者2は、曲の冒頭から終わりまで、低いノイズ音をとてもソフトな音質で演奏する。演奏者3は、沈黙の間の後に、中低音域の非常にソフトな音程を、ゆっくりした一呼吸分あるいは弓を一弾きする長さで演奏し、再び沈黙の間を入れた後、中高音域の非常にソフトな音程を同様の長さで演奏する。ここでの演奏者は、グレッグ・スチュアート(パーカッション)が1人で3つの音を出す。

スコアに記されたパウル・ツェランの詩の、「太陽から最も離れた場所」で鳴り続ける「雑音」を、グレッグ・スチュアートのパーカッションが見事に表現している。ドイツ系ユダヤ人として生まれたツェランは、両親を強制収容所で亡くしている。曲の冒頭から終わりまで貫く静かな低い雑音と、それに平行して鳴り続ける低い電子音が、戦争がツェランの魂に刻みつけた分裂した傷跡をなぞるかのように響く中、深くため息をつくように2度投じられる3つめの音が、詩の2つの節に表されたツェランの諦めに似たつぶやきを連想させる。

□9曲目:曲番16b   Tomorrow (4:29)

演奏者の数は5人。5人とも持続的な音を出せる楽器であること。曲の長さは1分間(それを何回繰り返してもよい)。演奏者は、同時に5つの音程の和音を演奏し始める。その際には、各々が他の演奏者とは無関係に自由な音とチューニングを選ぶ。演奏者5人は、その和音を最低10秒間は持続した後、一人ずつ、あらかじめ決められた順番に、演奏を止める。このプロセスを、同じ音程と同じ演奏順序のまま、何回繰り返してもよい。演奏と演奏の間に入れる沈黙の長さは自由だが、毎回長さを変えること。ここでの演奏者は、ジョニー・チャン(バイオリン)、マーク・サバト(バイオリン)、ジェイムス・オーシャー(ハーモニウム)、マイケル・ピサロエレキギター)、グレッグ・スチュアート(パーカッション)。

演奏者5人がばらばらに選んだ音が、不協和音と協和音の中間にあるようなハーモニーを形成している。冒頭、5人全員が音を一斉に出した時には、和音が複雑に揺れているような印象を与えるが、やがて一音また一音と消えていくに連れて、和音の揺れは次第に小さくなり、最後に1人の音のみが残った後には、それまで揺れている印象があった音が揺るぎない直線的な響きとなって終わる。ざわついていた空気が次第に鎮静へ向かう、あるいは悲しみのような感情の波が次第に静まっていく推移を連想させる。音の背後にある、死を思わせる厳かな沈黙が、ロバート・クリーリーの5つの単語だけで形成されたミニマルな詩と共鳴すると共に、一つ前の曲のパウル・ツェランの詩が放つ静かな悲しみとも連鎖している。

「Harmony Series 11 - 16」スコア研究の記録 (study notes)


english