映画「グリズリーマン」(2005年)

yukoz2006-08-17


 野性のクマとぬいぐるみのクマを混合してはいけない、野性の猛獣を甘く見てはいけない。グリズリーベアは、笹を食べて平和に暮らしているパンダとは違う。ヴェルナー・ヘルツォーク監督のドキュメンタリー映画「グリズリーマン」(2005年)を見終わった感想。

 このところ、ヘルツォーク監督の映画にハマっていて、DVDでいろいろ観まくっている。60年代後半から70年代のニュー・ジャーマン・シネマというのは、実はかなり面白い。「グリズリーマン」はこの監督のごく最近の映画だけど、この年になってもこれだけすごみのあるドキュメンタリー映画を作れるというのは、恐れおののく。

 70年代の映画「フィッツカラルド」では、アマゾンの奥地にオペラハウスを建設しようとする(しかも本当に建ててしまいオペラの演奏までさせる)。この試みもすごいけれど、そのための建設資金を得るために天然ゴムを採取して一攫千金を狙うとか、そのゴム採取のために巨大な船を現地で作ろうとする主人公の発想には、おののいた。(しかも、船は一度は急流にはまって動けなくなったので、それを引きずって山を越えようとする。)というか、そういう映画を思いついて、実際にアマゾンで4年半かけてロケを敢行してしまうというのが一番すごい。

 ヘルツォーク監督は、狂気ともいえる情熱で不可能に挑もうとする人間の「愚かさと崇高さ」を描くのがうまい。「カスパー・ハウザーの謎」の、隔離された山奥で育ち、成人してから人間社会に放り込まれた半オオカミ少年的な主人公など、普通の社会に適応できないほどに純粋な人間に対する深い愛情がある。社会に適応できない人間の弱さを、感情移入しすぎずに静かな視点で描く。映画「ユリイカ」のような弱者の心象風景に溶け込む視線とは違い、弱者に対する温かさと厳しさがクールなバランスを保っているところに、この監督の成熟した視点がある。

 ドキュメンタリー映画「グリズリーマン」の主人公も、成長過程で社会にうまく適応できず、なかば人間嫌い、文明嫌いとなり、野性のグリズリーベアの生活に魅せられてしまう。それだけでなく、毎年の夏、アラスカの国立公園内にキャンプを張り、グリズリーらのそばで暮らそうとする。野性のクマを狩猟者から保護するために、グリズリーの生態を人々にビデオを通して紹介するために、という名目を掲げているけれど、本音はただ純粋に「自分もクマになりたかった」のだと思う。主人公は、グリズリーの至近距離で撮影を続けたり、時にはペットのように、クマの頭をなでたりする。クマにジロリとにらまれて威嚇されると、「わっ」と威嚇し返して、クマをおとなしくさせたりする。毎年、夏にキャンプを張って生活している間に、いつしか野性のキツネがペットのようになついたりする。そういうところは、確かにうまく野性の動物を手なずけたなと感じさせるけれど、ほかのクマに食べられてしまった子グマの骨を見て「あんまりだ」と感傷的に泣き崩れたり、「動物たちは人間と違って純粋なんだ」と文明を呪い、自分までクマになりきってしまうのは、ちょっと危ないんじゃないかと思う。

 彼は結局、13年間グリズリーの生息地でキャンプ生活を続けた後、よそから迷い込んだ(とみられる)流れ者のグリズリーに襲われて、ガールフレンドと共に食べられてしまう。野性のグリズリーの凶暴さを忘れて、「愛情と理解と、動物の気持ちを察するセンシビリティーがあれば、グリズリーとだって共存できる」という甘い夢を信じていた主人公は、弱肉強食の法則を忘れたセンチメンタルで愚かな人間ともいえる。(餌の豊富な夏場は比較的平穏なグリズリーも、夏が過ぎて餌が見つからない季節になれば獰猛になるということを、彼は忘れてしまう。)野性のクマを手なずけることは、かえって彼らを狩猟者の危険にさらすことだと批判する自然保護団体もある。なによりも、いくら人間社会で拒絶されて文明嫌いになったからといって、野性のグリズリーと、犬や猫などのペットを混合してはいけない。そんな風に感情移入されても、クマだって面倒見切れない。

 それでも、映画を見終わった後に、なんともいえない切なさが残る。最後にグリズリーに襲われた時の音声が、本人のビデオに残っているらしいが、それは映画の中には登場しない。ヘルツォーク監督が、その断末魔の音声をヘッドフォンでじっと聴いているシーンがあるのだけど、そのシーンだけでも、むごさが十分伝わってくる。こういうクライマックスを観客の想像力にまかせるという手法は、さすがヨーロッパ映画だと感じさせる。

 主人公は、グリズリーベアの生息地にテントを張り、クマのぬいぐるみを抱えて子供のように眠る。このあたり、ジム・オルークが音楽担当(ギターで参加)というところが、まさにハマっている。