Cosmos


11年前に写真を始めたばかりの頃、当時住んでいた富士山の麓で花の写真ばかり撮っていた。当時、近くの高台にやはり東京から越してきた有名な写真家がスタジオを構えていて、なんとなくそこに遊びに通っているうちに、空いている暗室でカラー写真の手焼きを教えてもらったり、富士山ロケのグラビア撮影のアシスタントをさせてもらったりしていた。東京を離れた土地で暮らすのは初めてで、その環境になかなかなじめなくて半ば自閉症気味に写真ばかり撮っていた。

そこでは、花の写真の大家の故S.Aさんの写真のプリントや展示もしていて(お弟子さんだった人のスタジオだったので)、出入りしていたカメラマンの先輩たちが、よく「花の写真というのは簡単そうだけど、実はあらゆる写真の基本を学べる被写体なんだよ」ということを話してくれた。確かに一輪の花というのは、凛としたその立ち姿としなやかな曲線が、女性のポートレートにも似ている。富士山というのは遠方から眺めるには最高なのだけど、実際にその麓に住んでいるとあまりにも近すぎる巨大な山に圧倒されそうで、写真を撮る気にはならなかったけれど、富士山に咲いている色とりどりの花は本当に美しかった。当時は、まあ他に撮るものもないし、しかたないから手近にある花の写真でも撮るかという感じに片っ端から撮影していたのだけど、今こうしてアメリカに住んで遠い日本の風景を忘れそうな時に、ふとあの頃撮った花の写真を目にすると、ああこの清楚な美しさこそが日本の美なのか…とあらためて気づかされたりする。当時のスタジオのオーナーだった写真家の人はアメリカが大好きで、ログハウス風のスタジオの壁にアメリカの青い空やボストンやワシントンDCの街の写真が飾ってあって、その鮮やかなカラー写真の大パネルを見ながら、「アメリカっていいなあ、いつか行ってみたいなあ…」と当時は憧れていたのだけど。それが今はアメリカに住んでいて、あの頃日本の秋に富士山の麓で撮っていた小さなコスモスの写真に深く心を動かされている。

料理を作ってその写真を撮っていると、昔の花の写真を撮っていた頃の心持ちがよみがえる。今その時間に存在している自分の心を目の前の小さなものに集中させるという行為は、ある意味で現実逃避ともいえるのだけど、その短い命の頂点で咲いている花と、ある種の儀式的な過程を経て完成した料理の間には、何か心を癒してくれる共通の美しさがあるような気がする。(花の写真はこちらに載せています。)