北里義之著『サウンド・アナトミア』


この年末年始は、大谷能生氏の『貧しい音楽』(月曜社)と北里義之氏の『サウンド・アナトミア』(青土社)を続けて読破した。どちらも読み応えのある本なので、じっくり時間をかけて読み、昨日ようやく北里氏の本を読み終えた。いや、これは本当に感動した。高柳昌行の音楽、その生前の活動にみるアメリカのジャズ史から脱出して個を形成しようとする闘いや、フリージャズから音響的ノイズへの移行、そしてSachiko Mや中村としまるの演奏の特性などについて、これほど深淵に洞察された書物が出版されたことを、心から嬉しく思う。特に、日本ではポピュラーな「ミクシィ」という場へのアクセスのない私にとっては、これらの文章が活字化されて出版されたことが、とてもありがたい。

欧米では、Sachiko Mや中村としまるら、日本の即興演奏家が高く評価されているとはいえ、各々の評論は今ひとつ深みを欠いていると言うか、音楽や演奏家の核の部分までは理解されきれていないという印象を受けることが多い。しかし、北里氏のこの著書は、Sachiko Mや中村としまるの演奏に対して、私自身も感じていた「特別なもの」、彼らの演奏の背後あるいは真髄にある何かを、「自らの深みに触れるために響きに触れる」という見事な表現で言い表している。「哲学者たちの応答」を目指したという、他の評論家たちに対する問いかけや回答の仕方も、フェアな評論を心がける誠意のある姿勢だと感じた。

ある音楽や演奏家の核の部分、あるいは深淵に迫ろうとする評論というのは、欧米ではあまり見られないスタイルのような気がする。他人に遠慮せず、自由に違う意見を言い合えるというオープンな土俵はあるものの、そこで交わされる批評は、どこかからの借り物のような似たような評であったり、表層的な内容のものも多い。もしかしたら、とことん深みまで降りていき、その深淵にあるものを見てみたいという欲求は、日本人独特のものなのかもしれない。以前、灰野敬二の演奏をニューヨークのトニックで観た時に、その「降りていけるところまでまっすぐ降りていく」という、恐れを知らぬほどの垂直的な音楽への入り方に、アメリカ人の演奏者たちとの違いを感じたのを思い出す。

Sachiko Mや中村としまるの演奏についても、音響装置の珍しさやサウンドの個性的な部分にばかり焦点が当てられ、その背後にある演奏者としての彼らの本質までを理解している(あるいは感じ取っている)と思われるリスナーは、雑誌やインターネット上のレビューを読んでいる限りでは、欧米にはまだ非常に少ないような気がする。こちらでは、いまだに「東京の即興シーンはジョン・ケージの影響から生まれた」という説のみを信じている人も多い。将来、こうした大谷氏や北里氏の本のような優れた日本語の評論が英訳され、欧米でも広く読まれるようになれば、欧米のリスナーの意識も大幅に変革されるのではないだろうかと思う。かつてのアメリカ中心のジャズ評論が、アメリカから日本への輸入伝達という形で浸透したのとは逆に、伝統を打ち破ったこの種の新しい音楽に関しては、むしろ日本から発信されたもの(音楽や評論)が、保守的な視点(楽譜や伝統的な楽器を重視してきた歴史)からなかなか抜け出しきれずにいる欧米に、革新的なものとして広まっていくのではないかと思う。

北里氏が著書『サウンド・アナトミア』の中で批評について述べている部分(205頁)で、「(批評行為とは)容易に言語にならないものがみずから語り始めるまで、その皮膚にそって執拗に感覚を這わせつづけるような「苦しい、こまかい仕事」なのである」と記述しているが、この本はまさに、北里氏のそうした真摯な姿勢が一つ一つの言葉からにじみ出るように伝わってくる名著だと感じた。

北里氏の『サウンド・アナトミア』は、これから何度も読み返してみたいと思う。このように強い思い入れを持てる書物に出会えたのは、清水俊彦氏の『ジャズ・オルタナティヴ』を読んだ時以来かもしれない。大谷氏の『貧しい音楽』も、日本語で表現される世界の奥行きと広がり、日本語ならではの詩的なイメージというものを思い出させてくれた貴重な本だった。海外で暮らしているとなかなか触れられない「日本語」の美しさと深遠さ、表現の可能性、垂直的に深い根にあるものと向き合おうとする真摯さというものを、これら大谷氏と北里氏の両著書を読んで、久しぶりに体験できたのをとても嬉しく思う。北里氏の著書の中で引用されていた高柳昌行の『汎音楽論集』も、これからぜひ読んでみたいと思う。


ところで、北里氏の本を読んでから、手元にあった高柳昌行の「エクリプス」(1975年録音)の再発盤CDを聴いてみたら、その演奏が、99年頃に私がニューヨークのダウンタウンシーンで聴いていたいくつかの即興のライブ、たとえばマット・マネリやマーク・ドレッサーらによる即興演奏にどことなく似ているのを感じた。当時の彼らの演奏をNYで聴いた時には、非常に深淵な世界を垣間みるような気がして感動したのだが、それより20年以上前にすでに日本で高柳氏がこうした演奏をしていたのだと思うと、改めてその革新性に驚かされる。そして、故清水俊彦氏が著書『ジャズ・オルタナティヴ』の中で、ニューヨークのダウンタウンシーンの演奏家たちと高柳氏の音楽について並列して論じていたことを思うと、当時の清水氏の批評の鋭い視点に改めて尊敬の念を抱く。


                                                                        • -

【追記】 異国での体験による「音」と「音楽」の分離についての個人的な考察。


北里義之氏の著書『サウンド・アナトミア 高柳昌行の探究と音響の起源』の第2章の、「音」と「音楽」の分離についての記述を読んで、ふと自分の体験から思い出したことがある。本の中で述べられている意味付けとはやや違うかもしれないが、自分にとってはとても興味深い体験だったので記してみようと思う。

たとえば、長年住み慣れた土地を離れ、自分にとって何のルーツもない新天地で暮らすことになった時、「音」と「音楽」の分離現象というのを体験することがある。それは、それまである種の「音楽」が呼び起こしていたはずの感情や自分の脳内で起きていたリアクションが、異国で暮らすうちに、ある日こつ然と消えてしまっていることに気づく時であり、あたかも自分が根無し草になってしまったような、心もとない感覚に襲われる瞬間でもある。その時に聴こえてくる、もう一つの「音」というものがある。過去に何度も聴いていた「音楽」が持っていたはずの意味が薄れ、やがてその意味が脳内で完全に消滅した時に、初めて聴こえてくる「音」だ。それは、感情的な色づけや自分の体験に結びつく付加的なものがすべて剥ぎ取られた後に残った、純粋な意味での「音」であり、その聴こえ方は、あたかも全く別の「音楽」を聴いているようでもある。ある音楽は、かつての光彩を失って空しく響き(その音楽がかつて自分の中に呼び起こしていた甘く優しい感情が消えた後に、純粋な音としてのみ脳が受け止めた時、ただの騒音にしか聴こえない音楽)、逆にそれまで無機質なサウンドやノイズとしてしか受け止めていなかったある種の音楽は、突然その一つ一つの音の細部が命を宿したかのごとく立ち現れ、自分でも気づかぬうちにかさかさに乾いてしまった脳細胞の一部を、豊かな潤いで満たしてくれるかのように、響いてくる。

私にとって、この「音」と「音楽」の分離体験は、99年からニューヨーク・ダウンタウン実験音楽シーンの自主取材を始めて、1年のうち半分近くをニューヨークで過ごすようになってから始まったような気がする。日本で聴いていた音楽、ニューヨーク滞在中に聴いていた音楽、それらが反対の地にいる時には同じように聴こえてこないことに気づいたのが、そのきっかけかもしれない。やがて、音楽に対するその居心地の悪い分離体験は、日本にいてもニューヨークにいても起こるようになり、3年目を過ぎた頃には、それまで聴き馴染んでいたあらゆる「音楽」と自分との間に、理由のわからない「距離感」を感じるようになっていた。まるで離人症になったような感覚である。過去に愛聴していた音楽が、感情や自分の歴史との一切の繋がりを断たれて、頭の中で空回りする時の空しさ。と同時に、音楽というものが自分の中に呼び起こしていた感情的な要素や個人的なリアクションというものが、いかに大きいものだったのかを再認識させられる体験でもあった。

2002年に東京で開催されたアーストワイルのAMPLIFYフェスティバルを取材していた時に、中村としまる、Sachiko M吉田アミ、キース・ロウ等、日本や海外の即興演奏家たちの演奏をライブで初めて聴いたのは、ちょうどそんな時期だった。彼らの演奏から生まれる音は、当時の自分の脳がまさに必要としていた「音」だったように思う。感情に訴えかける要素を一切断たれた「音」。過去の自分の体験や歴史を全く連想させない「音」そのものの存在として、その純粋な響きに耳を傾けることで得られる安らぎ。AMPLIFYの後に、アーストワイルの一連のCDを改めて聴き込んでみた時にも、そうした感覚を体験した。耳や脳が惹かれる「音」というのが、自分の中で劇的に変化したのは、その時期だったのではないかと思う。


私にとっては、異国を体験し、やがていつしか母国すらを異国のように感じるようになり、自分の精神が根無し草のように拠り所を失いかけた時、自分をある風土や歴史に結びつけていた様々なしがらみから断たれ、孤立した「個」の存在としての自分を意識した時、風に吹き飛ばされそうなそのアンバランスで危うい精神に、毅然とした姿勢で真っ直ぐに立ち続けるためのバランスを与えてくれたのが、キース・ロウや中村としまる、Sachiko M吉田アミらの音楽だった。


* * * * * * * * * *


過去の自分と深く結びついていた音楽のすべてが、離人症的な分離体験を経て、永遠に遠ざかってしまったわけではない。そのことを体験したのは、先月24日、新宿ピットインの大友良英のライブで、カヒミ・カリィが最後に歌った「見上げてごらん夜の星を」を聴いていた時だった。その時、私は、旧知の歌を自分の心が様々な連想を伴いながら追っていくという聴き方(遠い過去に音楽を愛聴していた時のように)ではなく、その空間に今こつ然と現れた歌が、ぽつりぽつりと心に「降りてくる」という感覚を味わっていた。遠い昔に愛聴していた音楽との間の、あの居心地の悪い「距離」を感じることもなく、自分の上に静かに舞い降りる雪を見ているかのように、自然に音楽を受け止めながら聴いていた。時折、歌のすき間にすーっと滑り込んでは消えていく、Sachiko Mのサイン波の安らぎにも助けられたのかもしれない。日本でもない、世界中の他のどの国でもない、特定の風土とは切り離された、どこか遠い宇宙を思わせる空間で、その歌は響いていた。古い聴き慣れた歌が一度ばらばらに分解され、その歌にかつて伴っていた様々な色づけが消滅し、音の一つ一つが汚れのない純粋な「音」として再び立ち上がった時、そこから再構築された歌は、過去の記憶と結びついていた歌とは違う歌として生まれ変わる。脱構築から再構築へというプロセスを経て、音楽が再び汚れのないピュアな存在として立ち現れること、そうして再生された歌が再び人の心に触れることが可能だと知ったのは、嬉しい驚きだった。