Michael Pisaro - Only [Harmony Series No. 17] (和文)

「Only - Harmony Series No. 17」は、マイケル・ピサロの「Harmony Series」の中の17番目の作品で、同シリーズの中では唯一、ひとりの演奏者と環境音との共演を目的とした異色の作品だ。譜面(スコア)は、次のようになっている。

Only - Harmony Series No. 17 〜マンフレッド・ヴェルダーに捧ぐ〜

「空白だけ」

ガラスのような時間
ガラスのような空間
私は静かに座る
どこかで何かが起こる
静かに、騒々しく、ひっそりと、荒れ狂い、
ヘビがとぐろを巻き、
自身に巻きつく
すべては半透明になり
やがて透明になり
やがて消え去る
空白だけが
無限に広がる
おぼろげな歌だけが
かすかに聴こえる
とぐろを巻く心の中で
それだけ


(ケネス・レクスロス)※筆者訳

  • 演奏者は1人。
  • 大きな、開けた空間(できれば戸外)。
  • 長い時間。
  • 静かに座っている。
  • 耳を澄ませる。
  • 2、3回、とても静かな音を出して、かなり長い時間持続させる。


このスコアの実践は、2009年8月にマイケル・ピサロを含む21人の演奏者によって個別に試みられ、その個々の記録は、音声ファイルと共にオンライン上で見ることができる。(※プロジェクトの発起人はジェイソン・ブローガン、プロデュースはCompost and Height。)
http://harmonyseries.blogspot.com/

演奏者は、スコアに沿って各々の好きな場所を選び、そこに長い間静かに座り、周囲の音に耳を澄ませ、長く持続する静かな音を時折演奏する。人間同士の共演から生まれるハーモニー(特に倍音の共鳴がハーモニーにもたらす影響)の可能性を探り、そのあり方を理解することを目的とした「Harmony Series 11 - 16」に対し、ここではケネス・レクスロスの禅的な詩をイメージしつつ、人間と環境音はどのように共演してハーモニーをもたらすことが可能か、実践を通して探ることが目的となっている。この実践記録において、ピサロは次のように述べている。

「今ここで起きている現象の総体の中で、自分は何を聴き、それらの音の中にハーモニーを生むために、自分は何をしたらよいのか? 自分が出す音により、自分はそこに生まれるハーモニーの中にどのような関わりをもつことができるのか? そうやってその場の音を聴き続けることにより、自分自身の音の聴き方はどのように変わってくるのか? その間、どうやって時間を過ごせばよいのか? 自分は果たして空白を体験するのか、それともただ空白を想像するだけなのか?」 

□マイケル・ピサロ「Only - Harmony Series No. 17」 (ロスレス音声ファイル)
http://harmonyseries.blogspot.com/2009/08/michael-pisaro.html


2009年8月1日午後2時に、オーストリアのノイフェルデン近郊の自然の中でライブ録音された、マイケル・ピサロによるフィールドレコーディングのモノラル音とサイン音の15分間の共演。演奏は、スコアと同様、マンフレッド・ヴェルダーに捧げられている。

滝の音を思わせる強い川の水音が全体を貫き、時折、小鳥のさえずりや頭上を通りすぎる飛行機の音が入る。7分14秒あたりから、かすかにピサロが演奏するやや高周波よりのサイン音が入り、その後7分54秒あたりから別の音程のサイン音も加わりデュオとなる。サイン音は持続的に鳴りながらも、微妙に強くなったり弱くなったり、波のように強弱を変える。サイン音の存在感は、周囲の環境音を乱すことなく、非常に控えめだ。その一貫した響きは、安定した川の水音と見事に釣り合っていて、違和感は全くない。リズミカルに入るやや甲高い小鳥のさえずりが、サイン音の強弱に微妙な変化を与えているような印象がある。8分52秒あたりから、音程の違う別のサイン音も加わる。9分39秒から、飛行機の轟音のような重低音が入る(一瞬、飛行機の音なのか、演奏の音なのかわからないような印象を与え、冒頭に聴こえていた飛行機の音とは違う音のように聴こえる。サイン音の存在に慣れた耳が、環境音の与える印象を変えているのか?)。9分56秒から、新たにサイン音が増える。

聴いているうちに、川の音や鳥のさえずりが、あたかも音程を持ち、サイン音と共演しているような印象を与えるようになる。サイン音の存在が、それまでバラバラに存在していた川の音や鳥のさえずりなどの環境音を、見えない糸で繋ぐように、ひとつに結びつけていると同時に、冒頭ではひとかたまりの音の層として聴こえていた環境音の各々の音程や響き方の違いが、より意識されるようになっているのを感じる。最後の3分間は、サイン音が次第に薄れていき、最後には環境音の陰に見え隠れする程度になり、川の音や鳥のさえずりなどの環境音が再び浮き上がる。しかし、聴こえるか聴こえないかの微妙な瀬戸際で鳴っているサイン音が、確実にそれらの環境音の中にハーモニーをもたらしているのがわかる。

人間が演奏する音、自然界の音、ハーモニー

人間が演奏する音と、自然界に存在する音との違いとは何か。「Harmony Series 11 - 16」に見られるように、人間が演奏する音は、その演奏者の意志と心を介して生まれる。そして共演においては、異質の意思決定をもつ個性の違う者同士が、バランスを保って調和(ハーモニー)を生もうとする。そこでは人間同士の双方向のコミュニケーションが前提にある。つまり、人間が演奏する音は意図的・人為的な産物であり、演奏者の個性や自我、演奏者同士の関係といったものが影響する。それゆえに、一人一人の理解や表現力のレベルの違いが調和を乱したり、「相手の音を聴くよりも、自分の音を出すこと」の方が優先される危険があることから、調和を保つことが難しい。しかし、その流動性や予測不可能な性質ゆえの刺激や面白さ、美しさを生むことも可能となる。

一方、自然界の音は偶発的であり、互いに無関係・無干渉であり、意図的な操作を介さない純粋な形で生まれている。人間が演奏する音の主役が演奏者自身であり、そこには自我や個性の主張が含まれるのに対し、自然界の音の主役は特定の音ではなく、周囲に存在するあらゆる音であり、そこには特定の自我の主張はない。いわば、東洋的な禅の心境に通じるともいえる。

「Only - Harmony Series No. 17」の主役は、演奏者ではなく自然界の音である。ここでのコミュニケーションのあり方は、人間同士のような双方向の形ではなく、演奏者から自然界への一方的関与である。つまり演奏者という人間のみが、ハーモニーを左右する意思決定をもち、自然界に存在する様々な音を聴きながら、そこで展開されている環境音の全体像を把握し、そこにハーモニーをもたらすべく音を投じる。そのためには、「自分の音を出すこと」よりも「相手の音を聴くこと」が優先されなければならない。それにより、周囲の自然界の種々雑多な音の渦にハーモニーをもたらすには、自分はどんな鍵となる音を加えたら良いのか、おぼろげに見えてくる。

それでは、周囲の環境音を主役として、音に耳を澄ませた時、自分の中ではどんな変化がおきるのだろうか。その環境音の渦中へ自分の演奏する音を投じた時、自分の音はどんな影響をもたらすのだろうか。「Only - Harmony Series No. 17」において、こうしたことを考えつつ演奏すると、自分が次第に透明な存在となって、環境の一部として溶け込むような感覚を覚えるのではないかと思う。それは、そこで起きている環境音と自分の音が、等しく全体の一部として感じられる体験だ。「周囲の音に耳を澄ます」という姿勢から生まれるこの心境を体験することは、演奏者の演奏にどのような影響をもたらすのだろうか。

自然界の音がもつ、人為的な操作が入らない「音」そのものの純粋な響きに耳を澄ませていると、演奏者は、自分がそこに投じるべき音にも同様のピュアな響き(人為的な付加物を一切伴わない音)が必要であることに気づく。音が本来持っている純粋な響きを損なわずに演奏し、その音が最も自然な形で存在できる状態を考え出すことにより、演奏者と自然界の音はひとつに融合する。それは禅的な体験ともいえる。

人間同士の共演において、こうした自然界の音との共演体験によって得た「自分の音を出すことよりも、注意深く相手の音を聴くことを優先する」という姿勢をもって臨めば、どんな結果が生まれるだろうか。それは、各々の音が個性を突出させることなく、いわば半透明な存在となり、透明な和音を生み、最も自然に近い、最も人為的なあり方から離れたハーモニーだといえる。つまり、自然界の音との共演と同じ性質のハーモニーを目指して、人間同士が共演すれば、そこに普遍的な美をともなうハーモニーを生むことが可能になるのではないか。

「Only - Harmony Series No. 17」を体験することにより、演奏者が学ぶこと、得ることは大きい。このスコアで自然界の音との共演を体験してから、その後に同シリーズの他のスコアを複数の演奏者同士で実践する…というプロセスを辿れば、非常に興味深い結果を生むことになるのではないか。マイケル・ピサロが一連の「Harmony Series」の作曲と演奏を通して目指したのは、こうした普遍的な美をともなうハーモニーの実現なのではないかと思う。


透明な媒体としての演奏者 - マイケル・ピサロ

多くの演奏において、演奏者は「自分の声」を楽器の音や演奏を通して表現するというあり方をとる場合が多い。「声」とはつまり、その演奏者の個性や自我であり、アイデンティティであり、オリジナリティである。その一方で、音そのものが本来持っている響きを、囲いの中に閉じ込めたり、力づくで曲げたり、その純粋性を損なっていることもある。すべての音は、その音が最も自然に、無理なく生まれて展開する方向というものを持っているが、それは演奏者の自己表現の陰に失われてしまうことが多い。

時折、音楽の中に、そのように何か人為的なもの、余計なもの、力づくなもの、意図的に付加されたもの、自我によって歪められた自然でないものを感じると、居心地が悪くなったり、息苦しくなることがある。しかし、マイケル・ピサロの音楽には、なぜかそうした居心地の悪さや息苦しさを感じない。それはおそらく、ピサロの場合は、自分の「声」をあえて表に出さず、透明な存在・媒体としての演奏者となり、周囲の音と沈黙と溶け合い、詩の空気感を再現しつつ、環境音と楽器の音と沈黙(サイレンス)が一体となった音楽が生まれる状況を作り出しているからではないだろうか。ピサロの音楽には、音本来のもつ響きやその展開の仕方を、最も自然で純粋な形で見つけ出し、音を「解放」させているという印象がある。(モーツァルトのいくつかの楽曲の中にも、そのような自然さを感じさせる音楽がある。)そして、それこそが、マイケル・ピサロという作曲家・演奏家の個性であり、アイデンティティであり、オリジナリティなのだと思う。

最も自然で純粋な形で生まれた音楽は、控えめでありながら底知れぬパワーを持ち、 シンプルな形で人を感動させる。そして太古の昔から存在する大自然と同じように、永遠に損なわれない普遍的な美をもち、何世紀を経ても変わらずに人間を魅了するのだろう。


この「Only - Harmony Series No. 17」と「Harmony Series 11 - 16」で実践されたコンセプトは、後にピサロの2009年の作曲「July Mountain」(2010年2月リリース)において、複雑かつ壮大なスケールで融合する。

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