和食の話


アメリカに住んでいても日本食が懐かしくなることはめったにないのだけど、このお盆の時期と年末年始だけは、どういうわけか堰を切ったように和食を食べたい願望に襲われる。まあ半年に一度、母国の食事が恋しくなるのはごく自然なことかもしれないけれど、私はもともと和食を食べると日本でのストレスを思い出して胃痛を起こしたりする特異体質なので、これはほんとにめったにないことなのである。「愛国心のない日本人1000人」というブラックリストがあったとしたら、3年連続でその中に入りそうなくらい、日頃は日本のことを思い出さない生活をしている。だがしかし、日本人であるというのは、やはり特別なことなのだ。今年も日本がお盆休みに入る頃、無性にタラコスパゲッティと納豆巻きが食べたくなって、日本食スーパーで和食をどかっとまとめて買い込んだ。刻み海苔と青じそが乗っていてレモンが添えてある、あの日本のタラコ(または明太子)スパゲッティ。ああ…。アメリカ人から見たら「何よそれ?」と気持ち悪がられる一品である。しかし、ああ、なんとおいしいことか…。単なるレトルト入りのソースにこれだけリアルな素材の味を再現できる日本の食品加工テクノロジーに、これほど感動する日が来ようとは。

翌日は白飯を炊いて酢飯を作り、念願の納豆巻きとアボガド巻きを作った。近所の日本食レストランでもおいしい巻き寿司が食べられるのだけど、1本3.50ドル〜5ドルもするし、チップも払わないといけないし、巻き寿司はやはり自宅で作るのに限る。海苔と酢飯の上に白ごまをふって、巻きすの上でひっくり返して海苔が内側にくるアメリカ流でアボカド巻きを作り、納豆は包丁で細かくして付属のタレを少しだけ加えて、普通に海苔と酢飯の上に青じそと一緒に乗せる。巻いているときからもう寿司を食べられる感動と興奮で、手が震えてなかなかきれいな形に巻けない。しかし、形なんかどうでもいいのだ。あの醤油とわさびに海苔と酢飯が浸かったのを口にできさえすれば、もう中身はなんでもいいという刹那的な願望にとらわれている。こうして完成した納豆巻きとアボカド巻きを小分けに切って皿に乗せ、ついでに寿司屋風の甘い卵焼きも作って、冷たい緑茶を飲みながら食べた。ああ…、時間が止まるというのはこういうことか…。今度作るときはやっぱり紅ショウガも買ってこようとか、いつの日かウナギ巻きも必ず作るぞ、とかいろいろ思いつつ、日本人であることのありがたみをしみじみ味わった。しかし、たかが納豆巻きを作って食べるだけのことに、これほど長い文章を書く日が来ようとは日本にいた頃には思いもよらなかった。

あと終戦記念日というのも以前は特に強い感慨を覚えたことはないのだけど、今日はなぜか朝から和食が食べたくて、いつもはサンドイッチかベーグルなのだけど、わざわざご飯を炊いて、みそ汁と卵焼きと納豆(青のりとネギ入り)を作って、鮭ほぐしとキムチの瓶も開けて、しみじみと和食の朝食を食べた。できれば焼き魚もほしいところなのだが、そこは我慢。アメリカに来てから和食で朝ご飯を食べたことなんか一度もなかったし、食べたいとも思わなかったのだけど、どうしてだろう、今日に限って日本や田舎の親戚のことをしみじみ思い出したりするのは。大晦日とお盆というのは、日本人にとって骨の髄までしみ込んでいる何かがあるのだな、とあらためて実感。

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連日34度前後(昨日は37度!)なんていう日が続くと、あまり外出したくないので、つい料理のことに集中力が向いてしまう。とりあえず今冷蔵庫にあるものでどんな料理が作れるだろうか、そんなことばかり考えていたり。ところで、アボカド巻きといえば、たまにアボカドしかないけどネギトロ巻きみたいなのも食べたいなあ…と思った時には、アボカドのネギトロもどき巻きというのも作ったりする。アボカド1個の半分はふつうに細長くカットしてアボカド巻き用にする。残りの半分は、フォークでマッシュポテトのようにつぶしてレモンをふりかけ、マヨネーズとホットチリソースであえて、青ネギのみじん切りと白ごまと加え、隠し味にごま油少々を混ぜる。色はあやしい赤緑色なのだけど、これを巻き寿司の具にすると、なんとなくスパイシーなネギトロ巻きに近いものを食べているような気になれる。スパイシー・アボカド巻きのネギトロ風とでも名付けるべきか。外国で日本料理が恋しくて妄想状態になっている時なら十分満足できる味である。人間、追い込まれればどんなものでも思いつくものなのだなと。