Opening Gala Concert of NY Philharmonic 2018 w/Jaap van Zweden

On Friday, in the first half of the Opening Gala Concert program, The New York Philharmonic under its new music director Jaap van Zweden, along with pianists Katia and Marielle Labèque, performed the NY premiere of Philip Glass's Concerto for Two Pianos and Orchestra.

The opening movement of Glass’s concerto began with brisk, rhythmic sounds from the orchestra and the pianos, evoking a series of silvery white lights arising vertically from the stage in a clean structure. While maintaining crisp tones, there was also a pliable texture both in the sounds of the orchestra and the pianos. The same short melodies were repeated like a pulse, gradually transforming in a seamless flow, creating a positive energy, which evoked the throb of New York City and its people - like watching a fast-forwarded film of the decades passed by in the history of the city.

Although there seemed to be a slight discordance between the rhythms of the orchestra and the pianos at the very beginning of the first movement, soon the music came to the right timing between both. The rest of the performance was in a perfect rhythm, starting to express the subtle, silky transformation of sounds and a stereoscopic effect. The Labèque sisters' pianos were humbly in tune with the orchestra, adding sensitive touches to the music without obscuring the clean sounds of the orchestra. In the last slow movement, the music took on an ethereal feel, lending a hint of nostalgic lyricism to the air.

Giving a solid body to the clean structure of the concerto, van Zweden led the orchestra and the pianos to a natural flow, while breathing life into the music. The subtle but noticeable freshness in every moment when the texture of the sounds changed quickly was memorable. The pureness of the sounds was constantly maintained throughout the piece, while the crisp repetitions of simple short phrases created vigorous energies. All the elements in this concerto felt so natural. After the performance, the conductor, the orchestra, the pianists - and the composer - were greeted by a standing ovation. It was thrilling to see a contemporary classical piece so favorably received by such a large portion of the audience who filled the entire hall.

In the second half of the Friday night, The New York Philharmonic under van Zweden performed Mahler's 5th Symphony - and they performed it splendidly. The sound structure was simple and lucid, yet so moving with deep human warmth with the right amount of a poetic touch - exactly how I would like to hear the performances of Mahler's symphonies. The subtlety of van Zweden's conducting in the moments when the textures or the flow changed (and also at the very end of each movement) were even more breathtaking than his conducting in the previous Glass piece.

In the past, I did not have so much luck in experiencing good live performances of Mahler's 5th Symphony (often they tend to be too heavy or too emotional for my taste, or too chaotic with messed up timings), but Jaap van Zweden's Mahler 5th on this night was simply touching - blowing all those negative impressions away. It maintained a great tension and a seamless elegant flow throughout the piece, precisely timed with clear-cut sharpness, while being warm and compelling with deep, solemn reverbs, but never being overdriven or falling into a heavy mass. The balance between lyricism and coolness was exquisite. It was like Bernstein was singing Mahler elegantly with the moderate tempo in a clean structure of Boulez's conducting. Every moment was moving and refreshing - as if I were hearing this great symphony for the first time. It was definitely one of my favorite performances of Mahler's 5th Symphony, among all the live concerts and recorded versions that I ever heard in the past. I will definitely check out future concerts of The New York Philharmonic under van Zweden this season.

ニューヨーク・フィル・オープニング・ガラコンサート

2017年9月22日(金)@David Geffen Hall - 8PM   

ニューヨーク・フィルハーモニックの2018年シーズンの開幕となったオープニング・ガラコンサートに行ってきました。演目は、フィリップ・グラスの新曲「2台のピアノのための協奏曲」(NY初演)と、マーラー交響曲第5番。今回は、知人の音楽評論家の招待で、なんと1階中央のプレス席で聴くことができました。周りには、NYタイムズなどニューヨーク周辺のメディアの音楽評論家やライターの姿もちらほら。

同行した知人の話によると、1階のオーケストラ席の中央通路沿いにプレス席がある理由は、その昔、ニューヨークの活字メディアの記者達が、〆切(夜11時頃)までに音楽評を書き終えるために、演奏の最後の音が終わるか終わらないかのうちに立ち上がって急いで通路を走ってホールを出て、自社オフィルに戻ることができるように(周りに気づかれず速攻で出口まで走っていける場所ということで)、このエリアがプレス席になっていたらしい。長い演奏の時は、最後まで聴いていたら〆切に間に合わないので、当時のNYでは、ワーグナーのオペラを最後まで聴き通して評を書いた評論家は一人もいなかったのではないか…というジョークもあるとか。今はもう昔ほど原稿の〆切は切迫していないので、記者達も公演後に急いでダッシュしてホールを出なくても良いそうだけれど、往事の伝統が何となくそのまま残されていて(というかたぶん今さら別のセクションに移すのも面倒なので)、今も同じエリアがプレス席になっているらしい。

ということで、前半は、ミニマル・ミュージックの巨匠フィリップ・グラスの新作「2台のピアノのための協奏曲」(2015)。指揮は、2018年シーズンからNYフィルの音楽監督に就任するヤープ・ヴァン・ズヴェーデン。2台のピアノの演奏は、カティアとマリエラのラベック姉妹。ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンがNYフィルの音楽監督に就任して初めての公演ということで、満席の会場には、期待感が立ちこめている。

 オーケストラと2台のピアノから、白銀を思わせる澄み切った音が、リズミカルに交錯しながら次々と生まれ、小気味良くクリーンな曲構造を立ち上げていく。白銀のイメージといっても硬さや冷たさはなく、しなやかで柔らかい質感の音には、清々しく明るいポジティブなエネルギーが宿っている。リズミカルに反復される短いフレーズが、滑らかに繋がりながら徐々に変容していき、ニューヨークという街で脈打つ鼓動の力強さと、この街に生きる人々のポジティブなエネルギー、繰り返しの日常の中で少しずつ変容していく街のイメージと、うっすらと重なっていく。冒頭部では、オーケストラとピアノのリズムが若干噛み合っていない違和感もあったけれど(あるいはそれも作曲の狙いだったのかもしれないが)、第1楽章の中盤からはオケとピアノ2台のリズムがぴたりと合い、フィリップ・グラスらしい滑らかな音の変容と立体感が美しく表現されていた。オケのクリーンな響きを損なわない控えめさで、透明感あふれる繊細な音色を出していたラベック姉妹の息の合った2台のピアノもとても良かった。

ズヴェーデンの指揮は、見通しの良いクリーンな曲構造の中に生命の瑞々しい息吹と温もりを吹き込み、控えめな丁寧さで自然な流れを生みながらも、手応えのあるしっかりした肉付きを与えていく。音の質感がすーっと変わる時の、さりげない変化もとても新鮮だ。澄み切った音色の中にほのかな詩情とノスタルジーが漂う緩徐楽章では、ガラス窓越しに流れる静かな風景を思わせた。

演奏後は、会場総立ちのスタンディングオベーションに「ブラボー!」の声が飛び交う。前半部の現代音楽曲の後にこれほどの歓声が上がるというのもすごい。私が90年代頃にフィリップ・グラスを聴いていた頃は、ミニマルな曲という印象が強かったけれど、20年以上経った今聴くと、ミニマルというよりは普通に音楽として楽しめる曲だと思った。旋律や和音、音の強弱やテンポの変化が生み出す効果で聴き手の心を動かすというよりも、音そのものの純粋な響きの透明感や質感の微妙な変化、シンプルなフレーズの反復から湧き出すように生まれる自然なエネルギーが、この音楽の魅力だと感じた。

           (休憩時間) 

 後半は、マーラー交響曲第5番。第1楽章の冒頭では、トランペット・ソロの澄んだ豊かな音色のファンファーレが、清廉な空気の中に響き渡る。高らかに響く金管の音色に打楽器と低弦の重厚な響きが厳かに重なり、静けさの中に不穏な空気が生まれるこの部分は、過去に他のオーケストラで聴いた時には、音程や縦のリズムが若干ぐらつく気がすることが多かったのだけれど、今日のNYフィルは、しっかりした音程とリズムで見事にこの部分を演奏してくれた。この不動の安定感は素晴らしい。弦楽器の合奏の憂いのある旋律がゆっくり始まると、その深く潤いのある豊かな歌心に、以前観たドキュメンタリー映画のワンシーンでバーンスタインマーラーを指揮していた時の姿が重なって見えるような気がした。

オーケストラの一つ一つの楽器が、濁りのない澄んだ音色で丁寧に音の層を重ね、音楽に奥行きと深みを与えていく。清々しさと深い憂いが同居するニューヨークフィルの響きは、重すぎることもなく、あっさり流れていくこともなく、聴き手の心に深い刻印を押していく。複雑な音の層でホールを圧倒的な響きで満たした直後に、ヴァイオリンの静かな合奏部へとすっと切り替わる時や、各楽章の最後の音が消える瞬間に、はっとさせられる新鮮さがある。(余談:周りの席の音楽評論家達が、そのたびに「はっ」と耳をそばだてる気配が感じられたのが面白かった。)ズヴェーデンの指揮は、この音楽の「質感」が変わる時の繊細で丁寧な処理が、息を飲むほど美しい。そして、情緒的になりすぎないぎりぎりのラインで、たおやかに歌心を織り込んでいく手際に、ズヴェーデンの指揮者としての際立つセンスを見た気がした。

マーラー交響曲第5番は、過去に何度か他のオケで聴いた時には、感情移入されすぎて重く感じられたり、楽器の各セクションのリズムが(特に後半に)ばらばらになって緊張感が失われたり、緩徐楽章の旋律があまりにも耳に馴染みすぎていて新鮮さが感じられなかったり…などの理由で、実は今まで気に入ったライブ演奏に巡り会えたことが一度もなかった。でも、今回聴いたズヴェーデン指揮ニューヨークフィルのマーラー5番は、冒頭から最後まで一瞬たりとも緊張の弛みを感じさせず、オケの各パートの縦のリズムがずれる瞬間もなく、終始ぴたりと合うタイミングで、たおやかにひとつの大きな「音楽の流れ」を生み出していた。聴き慣れたはずの5番という曲が、まるで初めて聴く音楽のように新鮮に聴こえ、あざとさのない素直で自然体の演奏の奥から、マーラーの魂の真摯な声が聴こえてくるような気がした。アダージェットでは、マーラーの妻アルマへの愛情が感情や感傷を超えた崇高な次元まで高められ、永遠の領域へ運ばれていくのを見つめているような、透明な美しさに包まれた。

 公演を聴き終わってから24時間以上たった今も、マーラー5番の曲中のあちこちのフレーズが、ふとした瞬間に、ふわっと鮮やかに頭の中に蘇ってくる。バーンスタイン時代のニューヨークフィルの演奏は、もしかしたらこういう歌心を湛えていたのではないかとか、ブーレーズ時代にはこんな風に澄み渡った音を響かせていたのでは…など、いろいろ想像を膨らませてくれる演奏だった。

 まさに、ブーレーズの指揮の見通しの良い明晰な音の層の中に、バーンスタインの人間的な温もりや深い哀愁が宿ったかのような、静かにそして深く心を打つ演奏。それがズヴェーデンの指揮の魅力かもしれない。そのどちらの個性とも深く関わってきた伝統のあるニューヨーク・フィルだからこそ、ズヴェーデンの指揮の持ち味を素直に受け入れて、今後様々な名演を残していってくれるのではないかと期待している。本当に、まるで長年共演を続けてきた指揮者とオーケストラのように、一分の隙もなくぴたりと呼吸のあった演奏で、オケと指揮者の「相性が良い」というのは、まさにこういう関係のことを言うのだなとしみじみ思った。

 今回見たズヴェーデンの指揮の印象をまとめると、オーケストラのチューニングや全パートの縦の線が終始乱れず、きちっと合っていたこと、曇りや濁りのない透明感のある明瞭な響きが出ていたこと、弱音や音の始まりと終わりの処理がきわめて繊細で丁寧だったこと、狙いすぎない控えめなメリハリで新鮮な息吹を随所に吹き込みながら、継ぎ目を感じさせない滑らかな曲線で自然な音楽の流れを作り出していたこと、そして懐の深さや人間性の豊かさを感じさせる素朴で哀愁に満ちた歌心に溢れていたこと。ニューヨーク・フィルの伝統とも言えるマーラーを演奏するのに、まさに理想的な指揮者という気がした。

前回、火曜日の初演ガラコンサートの日のレビューを読むと、演奏が勢いよく疾走し過ぎて、丁寧さに欠ける演奏だったという酷評もあったようですが、その反省(?)からか、2回目のこの日の演奏は勢いに走りすぎることは全くなく、非常に落ち着いた、クールさと熱さのバランスが秀逸な名演だと思いました。

 (余談ですが、リンカーンセンター内のホール入口は、今シーズンからセキュリティが強化されて、空港のセキュリティチェックのようなゲートができて、開演前に長い列ができていました。今後コンサートに行く人は、早めに到着して列に並ぶ方が安心かもしれません。あと、1階の中央席で聴いた印象は、マーラーなど大編成のオーケストラの時は特に、各楽器セクションの音が鮮明に分離良く聴こえて、音楽の流れや質感の変化がクリアに感じられるように思いました。ただ、ピアノの音は、1階で聴くより2階席以上の上方で聴く方が、倍音の広がりが豊かに聴こえるような気がします。)

※追記:次回のズヴェーデン指揮のNYフィル公演は、来年3月のストラヴィンスキー春の祭典」と、ユジャ・ワンとのブラームス「ピアノ協奏曲第1番」を聴きに行く予定です。

 

My Year-End List of 2016

Favorite Releases of 2016 (classical + experimental genres)


1. Keith Rowe - The Room Extended (ErstSolo)

2. Michael Pisaro/Reinier Van Houdt - the earth and the sky (ErstClass)

3. Mitsuko Uchida - Mozart Piano Concerto No. 17 in G major / Piano Concerto No. 25 in C major (Decca)

4. Toshiya Tsunoda - Somashikiba (edition.t)

5. Jürg Frey/Quatuor Bozzini - String Quartet No. 3/Unhörbare Zeit (Edition Wandelweiser)

6. Nikolaus Harnoncourt/Concertus Musicus Wien - Beethoven Symphonies Nos. 4 & 5 (Sony Classical)

7. Seong-Jin Cho/Gianandrea Noseda/London Symphony Orchestra - Chopin: Piano Concerto No. 1 and Ballades (Deutsche Grammophon)

 

8. Michael Pisaro/Christian Wolff - Looking Around (Erstwhile)

9. Khatia Buniatishvili - Kaleidoscope (Sony)

The Cleveland Orchestra (Franz Welser-Möst) perfomed Shostakovich - Symphony No. 4

2016年1月17日(日)7:00PM開演 @カーネギーホール

The Cleveland Orchestra conducted by Franz Welser-Möst

PROGRAM:
Hans Abrahamsen - let me tell you (NY Premiere) by Barbara Hannigan (soprano)
Shostakovich - Symphony No. 4

クリーヴランド管のライブ公演を聴くのは、昨年7月にリンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールで、ベートーヴェンの「田園」をフランツ・ウェルザー=メスト指揮で聴いた時以来の二度目。今回は、特に響きの良いカーネギーホールでの公演だったので、このオーケストラ独特のクリーンな響きの美しさを堪能できたように思う。その公演の感想を2回に分けてTwitterで連続投稿したものを、記録として以下に転載します。

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1月17日(日)

クリーヴランド管、 何てすごいオーケストラなのだろう。カーネギーホールがこんな清浄な空気に包まれたことはない。先日他界したピエール・ブーレーズに捧げられたという今日の公演。もしブーレーズショスタコーヴィチを指揮していたら、こんな演奏だったかもしれないと思わせる透明感と凄みのある演奏だった。どちらの曲も演奏が終わった後、ウェルザー=メストがそのままの姿勢で指揮棒を15秒くらい下ろさず、ブーレーズへの思いをその場にいた全員で共有するように、沈黙の中でじっと静止していた。今までにカーネギーホールで体験した、最も深く濃い沈黙の時間だった。

(・・・と、帰宅途中のプラットホームでここまでツィートして、あまりにも興奮していたので思わず逆方向の地下鉄に乗ってしまいそうになり、慌てて気づく。帰りに逆方向の地下鉄に乗ってしまいそうなほど感動したコンサートは、昨年6月のサンクトペテルブルク・フィルのショスタコーヴィチ5番を聴いた時以来。ショスタコーヴィチには、磁場を狂わすパワーがあるのか。以下は、帰宅後のツィートから。)

最初の演目、ハンス・エブラハムセンの新作「let me tell you」(NY初演)では、演奏後、割れるような拍手が長い間続いていた。菅と弦とソプラノが、同じ高音を出している時の、絹のような音色の驚くべき一体感。しんと静まり返ったホールに響く、高音ピアニッシモのヴァイオリンの合奏部では、柔らかな質感の透明な衣が優雅に舞いながらホールの空間に広がり、客席を包み込んでいくような、この世のものとは思えない妖艶な、それでいて清らかな美を醸し出していた。

バーバラ・ハンニガンのソプラノの濁りのない澄んだ歌声と、ヴァイオリンやフルートの高音の柔かな響きが、どちらが声でどちらが楽器の音がわからないほどの均一な質感と同じ繊細なニュアンスでひとつに溶け合っている。普段はメインの前の前菜のようにあっさり聴かれがちな現代作曲家の作品で、これだけ会場が静まり返り、広いホールが濃密な空気で満たされ、最後に割れるような拍手喝采で観客が沸いたのを見たのは初めてだった。翌日の「NYタイムズ」紙の評でも、この時の観客の反応のことが特筆されていた。

 

現代音楽曲の新作の指揮で大きな拍手喝采を浴びるのは、通常はヴァーチュオーゾと呼ばれる巨匠指揮者だけだが、日曜のカーネギーホールでは、クリーヴランド管を指揮したフランツ・ウェルザー=メストが、ハンス・エブラハムセンの新作「let me tell you」のニューヨーク初演の後に、まさにその拍手喝采を浴びていた。(NYタイムズ紙 1/18/2016)

 

次のショスタコーヴィチ交響曲第4番では、エブラハムセンの作品の演奏とは打って変わって、冒頭から水しぶきをあげて突き進むような鮮烈で切れの良い音で始まった。作曲の構造の隅々まで見えてきそうな理知的で精緻な演奏なのに、冷たさは全く感じさせず、澄み切った明晰な音の連なりや重なりの奥に、生き生きとした躍動感と力強い生命力を感じさせる演奏だ。

一つ一つの楽器の音の分離は驚くほどクリアなのに、オケ全体の音色が一つの線となって進んでいくような一体感がある。一本の細い弦の音色かと思ったら、弦楽器全員で演奏しているのを見て驚くことも何度かあった。金管からハープのソロへ、そして弦の合奏へと、違う楽器間でパートが受け継がれていく所も、あたかも一本の線上を流れていくように、音質の違う楽器でありながら同じ音圧で継ぎ目なく繋がっていく。誰がどの音を出しているのか、近くで見ていてもわからないくらい均一な音で、誰一人突出することがない。

昨年リンカーンセンターでクリーヴランド管のベートーヴェン「田園」を聴いた時は、音響の悪いとされるエイヴリー・フィッシャー・ホールで、しかもステージからかなり遠い席だったにも関わらず、今日と同じようなオーケストラの音色の統一感と透明な空気感、弱音の繊細なニュアンスまでもがリアルに伝わってくるのに驚いた。

今回は、ステージのほぼ左真上から見下ろすような席だったので、演奏の直接音がよく聴こえ、オーケストラの奏者一人一人の動きがよく見えたのも良かった。このオーケストラは、楽器の音色の一体感だけでなく、弓の動きなど奏者の動きまでもがぴたりと統一されているのが凄い。渡り鳥の群れが美しい編成の形を自在に変えながら優雅に飛行していくかのように、ひとつになって演奏するクリーヴランド管弦楽団。それを導くウェルザー=メストが、神のように見えた。オケ全体のチューニングと各楽器の音程がぴたりと正確に合い、最も純度の高い濁りのない音色で演奏されると、これほどまできれいにホールの隅々まで音が届くものなのか。ブーレーズが作り上げようとしていたオーケストラの音の世界というのは、こういうものだったのかもしれない。

今日のクリーヴランド管の演奏の、全く濁りのないピュアな響きの純度は、ブーレーズクリーヴランド管のマーラーストラヴィンスキーベルリオーズのCDを聴いた時の音と同じ印象だった。数本の光の線が平行して進み、近づき、重なり合い、遠ざかっていくのを眺めているような、透明な音の層の美しさ。弦の合奏や管の合奏の時に、何本もの透き通った光の柱が並んで立ち昇っていくのを天から眺めているようなあの美しさは、ちょっと通常はカーネギーホールでも体験できない現実離れした世界だった。クリーヴランド管、何というオーケストラだろう。

あれだけ近い席で聴くと、オケによっては金管の音などが響きすぎて耳に痛いことがあるのだけど、クリーヴランド管は、打楽器総動員でシンバル鳴り響き状態の大音量で演奏していても、音が塊になってぶつかってくる感じは全くなく、迫力は十分あるのに風通しの良い音が抜けていくという清涼感があった。低弦やファゴットコントラバスバスドラムなどの低音も、濁りがなく、分離の良さと切れの良さに驚いた。

冒頭の写真は、ショスタコーヴィチ4番の終演後、4度目のカーテンコールの後のウェルザー=メストクリーヴランド管。この後も長い間、拍手が鳴り止まなかった。

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1月18日(月)

昨夜は、クリーヴランド管の演奏の凄さに圧倒されて、興奮のあまり帰宅途中から始めた連投ツィートの後、9時間も熟睡してしまった。昨日はクリーヴランド管の演奏の印象について主に語ったので、今日はショスタコーヴィチ交響曲4番という曲について思ったことなどをつらつらと。

この4番という曲は、他の指揮者とオーケストラのCDで聴いた時には、あちこちに飛ぶ曲調の変化と、繋がりの唐突さに戸惑って、途中で気が散ってしまうことがあったけれど、クリーヴランド管の昨夜の演奏は、一瞬たりともゆるみのない緊張感と流れの自然な美しさに引き込まれて、冒頭から終わりまで耳が釘付けになった。

ショスタコーヴィチ交響曲第4番は、5番以降の交響曲に比べると、政治的な要素や恐怖などの心理的な要素がそれほど強く現れていないので、「交響曲」というものの構成の面白さを純粋に楽しめる曲なのだなと、昨日のクリーヴランド管の演奏を聴いていて思った。まさに交響曲(響きが交わる曲)の異なる楽器の音の層が生む響きや、その響きが与える純粋な音響的効果、そして楽器から楽器へと音の響きが受け継がれていく時の流れの妙など、音そのものの響きの美しさを楽しめる曲だ。そして各楽器の響きの純度が高ければ高いほど、オーケストラ全体のチューニングと演奏者の音がぴたりと揃えば揃うほど、その効果を大きく感じられる、聴きどころが満載の曲だと思う。

そうしたショスタコーヴィチ4番の魅力でもある複雑な音の重なりや連なりが生む構造の美しさを、あたかも澄んだ水底をのぞき込んでいるかのような透明度と明晰さで見事に見せて(聴かせて)くれたのが、昨夜のカーネギーホールでのウェルザー=メストクリーヴランド管の演奏だったと思う。

ショスタコーヴィチ交響曲の魅力は、和音や倍音が生む水彩画や油絵のような色合いの滲みの美とは違い、ロシアの構造主義美術のような、幾何学的な図形や線が各々に純度の高い形や色の違いを際立たせつつ、清廉と澄み切った空気の中で全体としての見事な調和を保っている、そんな音楽だと思う。そこでは、幾何学的な線や図形の接点に曖昧な滲みは生まれず、純然とした分離感を保ったまま、すっきりした全体の構図の中で完璧なダイナミクスのバランスが保たれている。ウェルザー=メストクリーヴランド管は、まさに、そうしたショスタコーヴィチ構造主義的な美しさを見事に体現していた。

そして、第2楽章までの機械的なリズムとテンポで緊張感溢れる演奏を繰り広げた後、第3楽章でパロディ的に挿入されるシュトラウスのワルツの一節を振る時の、ウェルザー=メストの指揮の優雅なことと言ったら。ウェルザー=メストの指揮のエレガントな側面が、きらりと光ったような瞬間だった。

昨年、同じカーネギーホールで聴いたサンクトペテルブルク・フィルの5番は、ショスタコーヴィチが当時のスターリン粛清下で、人間として芸術家として、ぎりぎりのところまで追い詰められた崖っぷちの精神状態の中に立ちながらも、最後まで譲れなかった人間としての尊厳と美への執着、逆境と批判と悲痛の中で精神が切り刻まれ自信を失いそうになりながらも、自分が創り出す作品の価値を信じる気持ちを失わなかったという凄みが、じわじわと伝わってくるような名演だった。一方、今回のクリーヴランド管の4番は、ショスタコーヴィチが純粋な交響曲の作曲に徹底して取り組んだ、その凄まじい「美への執着」が、ありありと伝わってくるような演奏だった。スコアの奥にあるショスタコーヴィチの美意識を、濁りのない明晰な視線で見据えて表現したウェルザー=メストはやはりすごい。

昨日の公演をブーレーズに捧げるというのは、おそらく後から決まったことなのだと思うけれど、それでもその気持ちが指揮者と楽団員一人一人の心にあったのか、実際にブーレーズの指揮の氷のようにシャープな明晰さと透過度を思わせる演奏だった。じっと耳を澄ませると、クリーヴランド管の団員たちが、皆ブーレーズのことを思いながら演奏しているのが伝わってくるような気がした。そして、演奏が終わった後の15秒あまりの黙祷の静寂の中では、それまで聴いていた演奏が、ゆっくりと深く観客の心の中に刻み付けられていくような気がした。

このクリーヴランド管のショスタコーヴィチ交響曲第4番の演奏の明晰さと透明度は、あたかも全身が光のシャワー(時には光の洪水)に包まれるような、カーネギーホールでもめったに得られない体験だった。いつかCDでも聴いてみたいので、ぜひどこか条件の良いホールで録音してほしい。(カーネギーホールは観客の咳き込みの音がひどいので、録音しても編集が難しそうですが…。)

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余談ですが、カーネギーホールもようやく入口でのセキュリティーチェック(金属探知器とバッグの中身検査)が始まったようです。今まではあまりにも無防備で、チケットさえ持っていれば誰でも入れるのは危ないなあと思っていたので、良かったです。

それにしても、あのクリーヴランド管の、時として楽器の音とは思えない、光の洪水のごとくステージから発散されて聴覚とは違う感覚に飛び込んでくるような音は一体何なのだろう。特に、ヴァイオリンや金管の合奏部。ボストン響だったら、あくまでも楽器の集合体の音として聴こえてきそうなのだけど。時間が経った後にも、演奏の響きがいつまでも聴覚だけでなく視覚にも焼きついて残っているような、不思議な印象があった。

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【追記】1/19/2016

CD: Shostakovich: Symphony No. 4(Bernard Haitink / Chicago Symphony Orchestra)


一昨日のクリーヴランド管の演奏を聴いて、ショスタコーヴィチ4番にすっかりはまってしまったので、ハイティンクとシカゴ響の盤をSpotifyで聴いている。すっきりした明瞭さで交響曲の純粋な響きを味わえる点や、大音量のパートが悲鳴や慟哭にならずに、澄んだ光のシャワーを浴びるような清々しさで聴ける点が似ているかも。これも4番の名演と呼ばれているそうですね。

http://www.hmv.co.jp/product/detail/2755711
http://www.amazon.com/dp/B001BBSE6Y/ref=cm_sw_r_tw_dp_4SCNwb1M46451

Michael Tilson Thomas & San Francisco Symphony - Mahler Symphony No. 2 (SACD)

マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団マーラー交響曲第2番「復活」

マイケル・ティルソン・トーマス(MTT)指揮サンフランシスコ交響楽団マーラー交響曲第2番「復活」のハイレゾ音源をネットで入手したので、聴いてみた。これが実は大当たりのマーラー2番だった。

全体にゆったりしたテンポで、録音の音質も鮮明、澄み切った空気の中で展開する、譜面の細部が見えてきそうな見通しの良い演奏だ。ハイレゾということもあり、音の分離と空間の広がりが素晴らしく良い。音量をやや高めにして聴くと、楽器の音がクリアに分離したままどこまでも伸びていく感じで、ちょっと恐ろしいほどの迫力が出る。弱音部はこれ以上繊細に表現しようがないのではというほどに細く優しく柔らかく、強音部ではティンパニバスドラムや低弦の音が、風通しの良いすっきりした質感を保ちつつ、これ以上の凄みは出せないのではというほどの低音の沈み込みの深さと迫力を生む。弱音から強音までのダイナミックレンジの広さは、他に類を見ないほどクリアにバランスよく録音に捉えられている。底の見えない深い湖に巨大な塊がゆっくりと沈んでいくような低音の響きは、その後に続く深い沈黙を浮き上がらせる。

明快な音色で曲の隅々にまで光を当てるような透明度、楽器の音の切れの良さと濁りのない音、緻密に構成されたオーケストラの音の調和とバランスの取り方に、ティルソン・トーマスの極めて繊細な感性と突き抜けた美意識の高さを感じる。走り過ぎず、熱くなりすぎず、それでも決して淡白に冷徹になることはなく、マーラーの音楽への純粋な感動がその視線の奥にはある。第1楽章の最後の5分間の美しさと独特のリズムが生み出す緊迫感、漆黒の闇を思わせる沈黙の中に低弦の響きがゆっくりと傾れ込むように降りていく迫力は絶品だ。

第5楽章が特に素晴らしい。時には優雅な舞踏を思わせる洗練されたリズムで、時には地の底を真っ直ぐにのぞき込むような決然としたダイレクトな視線で、この音楽の終盤の、オーケストラの音と声楽のパートが明暗の光と影を揺らしながら一つになり、透明な天上の祈りへと静かにダイナミックに昇っていく様を、壮大なスケールで緻密に優雅に描いていく。第5楽章の中盤の、ティンパニの連打が静かに始まり急速に膨らんでいくところなどは、嵐が来るのかと思わせるような、スピーカーから地響きのごとく静かに迫り来る低音の凄みに圧倒される。このティルソン・トーマスの第5楽章を聴くと、この最終楽章の構成の美しさが3D映像のような立体感を帯びて浮かび上がってくるような気がする。

冒頭の一音から最後の一音まで、一寸の弛みもなく、透明な哀しみを含んだ大人の歌心が貫いている。音のため方や流し方、緩急と強弱の付け方が呼吸をするように自然なので、途中で飽きることがない。聴き始めると、歌うように滑らかな曲の流れと、美しく大胆に表情を変えていくオーケストラの演奏の機微に引き込まれて、つい最後まで聴いてしまう。聴き終わるたびに、その演奏の完成度の高さ(と録音の素晴らしさ)に、思わずスピーカーに向かって拍手をしたい衝動に駆られる。最後の音が消えた後に部屋に広がる静寂は、まさにコンサートホールでオーケストラの名演の迫力に圧倒された直後に感じる、あの一瞬の深い沈黙と同じだ。感情移入するのではなく、一貫して冷静な澄んだ視線でマーラーの曲構造を見つめつつ、その壮大な音楽美に深く心を打たれているティルソン・トーマスの感動が伝わってくるようだ。

この盤は、「Mostly Classic」のバックナンバーの2011年のマーラー特集(デジタル版)で、山ノ内正氏が優秀録音盤の1枚として推薦していた盤(SACD)なのだけど、私のニアフィールド・リスニング環境で聴いてもこれほどの感動があるのだから、もっと本格的なオーディオ装置で(大音量で)聴いたら、爆風に飛ばされるくらい感動しそうだ。できればハイエンドのパワフルなオーディオ機器で、誰にも気兼ねなく、ゆっくりじっくり聴いてみたいと思わせる名盤だ。

 

マーラー交響曲第2番ハ短調『復活』
イサベル・バイラクダリアン (S)
ロレーン・ハント・リーバーソン (Ms)
サンフランシスコ交響楽団&合唱団
ヴァンス・ジョージ (合唱指揮)
マイケル・ティルソン・トーマス (指揮)

録音:2004年6月(デジタル)
場所:サンフランシスコ、デイヴィス・シンフォニー・ホール

<参考>

ハイレゾ音源販売サイト「HDTracks」のティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ響のマーラー交響曲第2番(24bit/96kHz)

米国AmazonのSACD

Spotifyのティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ響のマーラー交響曲第2番

HMVのサイトの日本語の解説とレビュー

Music with Fluctuations (揺らぎのある音楽)

About ten years ago, I talked about 'music with fluctuations' at one of the lecture series held every Saturday at a jazz cafe in Tokyo, where music writers and critics gave small lectures each week while playing some music (mostly jazz) under certain themes they chose. For my turn, I decided to do a personal interpretation of the music I was especially interested in at the time rather than a formal lecture. Also, since I had not yet been exposed to a wide range of music back then, my choices of music were embarrassingly narrow - some from contemporary jazz, some from minimal electronics. But one thing I particularly remember is that I was strongly fascinated with something like ‘fluctuations’, which I found in some of the music.

In those days, I was not able to explain why I was so strongly attracted by 'fluctuations' in music, and did not fully grasp exactly what kind of musical phenomena caused the fluctuations. I just noticed that in the process of some music developing (supposedly) under a certain frame of the music along with the flow of time, sometimes there was a moment when a subtle change appeared like a waver and stirred the music as if the music were almost going slightly off balance. Sometimes it was a little tremor of a voice, or a moment when a soft sustained electronics sound started slightly wavering, or a moment when I thought I perceived a hidden unexpected tone under the present chord. Those changes were almost unrecognizably subtle like small events happening in a micro world, and seemed to be missed easily with casual listens. But for me, they created a vivid (and fascinating) moment as if I were falling into a black hole or the reality was fading out in front of me for a moment, which almost caused me a light dizziness. What I perceived then could be some 'sound movement’ that I had never experienced before. Or it may not have been an actual sound movement; instead it could have been just an impression in my imagination via some particular element (or some combination of multiple elements) that had somehow brought the images of fluctuations into my brain.

These images of fluctuations in music, which I had only faintly sensed in those days, are now much clearer to me since I started listening to Michael Pisaro's music (especially 'an unrhymed chord' and 'harmony series 11-16'). The fluctuations I perceived in the music, I now think, seem to be connected with ‘the unknown’. For example, if there is a straight line on which regular numbers are supposed to appear one after another like '1' followed by '2' then by '3'. But if some unexpected number like '1+1/2' appears as a half-translucent image between numbers, or if the number supposed to follow '3' is somehow almost invisible, our established sense of reality is momentarily shaken with the unexpected event - and this must be the moment when we experience a 'fluctuation'.

Along with the subtle resonances of the harmonic overtones that bring actual wavers in the flow of the sounds - just like magic, the moment when our established sense of reality is challenged, could be when we see the entrance to the unknown time and space (which is slightly away from reality). This experience activates the listener's imagination - just like some invisible sentence seems to emerge in between printed lines of sentences on a paper if imagination is involved. When a listener encounters these fluctuations in the music, his/her brain which used to rely on predictions unconsciously and just follow the flow of the music (reality) passively before, suddenly starts working actively for the first time – then the listener starts listening to the music more carefully, trying to explore something which may be hidden under the music (and silence) beyond the actual sounds and silences.

 

10年ほど前になるけれど、四谷のジャズ喫茶「いーぐる」で、「揺らぎのある音楽」というテーマの音楽講演を行ったことがある。講演といっても、テーマに沿って選んだ曲をかけて、それぞれの曲に対する個人的な見地からの解説を沿える…というだけのもので、あまりたいした話はしていなかったような気がする。曲の選択も、まだそれほど幅広く音楽を知っていたわけではないので、ジャズやミニマルな実験音楽からの選択のみで、今思うと恥ずかしくなるような狭いラインナップだった。ただ一つ、その頃個人的に強く心を奪われていたのは、ある種の音楽がふとした瞬間に見せる「揺らぎ」というものだった。

その当時も、自分がなぜ「揺らぎ」というものにそれほど強く惹かれるのかわからなかった。そして「揺らぎ」というのが、具体的に一体音楽のどんな現象を指すのかも十分にはわかっていなかった。ただ、時間の経過と共に、ある音楽的な規則に基づいて発展していく(と思われる)音楽の中で、ふと気づくか気づかないかの微かな変化が起きて、音楽のバランスがぐらっと傾くような気がする瞬間がある。それは、気づくか気づかないかの微妙なレベルでの、ふとした声の「ぶれ」であったり、小さな音量で真っ直ぐに伸びていく音が微かに揺れる(ような気がする)瞬間だったり、和音の中に未知のトーンが隠れているのを聴き取った瞬間だったりした。どの変化も、あたかもミクロの世界で起きている小さな出来事のように、簡単に聞き逃してしまいそうな微妙な変化なのだけれど、私にとって音楽が揺らぐその瞬間は、思いがけずブラックホールに遭遇したかのような、自分が立っている現実の世界が微かにフェードアウトしかけるような、軽いめまいを起こさせる強烈な(そして心を魅了する)体験だった。それは、もしかしたら、今まで体験したことのない、初めて聴いた「音の動き」とでも表現できるかもしれない。あるいは、それは実際の音の動きではなく、その瞬間にその音楽が含んでいた要素の何かが(あるいは複数の要素が重なって)、聴き手(私)の想像力の中に、揺らぎのような印象を錯覚として与えたのかもしれない。ただ一つだけ、わかっていたことは、その音楽を何度聴き直しても、やはりその「揺らぎ」はいつもそこにあったということだった。

あの頃、いくつかの音楽の中におぼろげに感じていた「揺らぎ」というのが一体何だったのか、マイケル・ピサロの音楽(特に「an unrhymed chord」や「Harmony Series 11-16」)を聴くようになってから、より明確に見えてきたような気がする。音楽の中に感じ取る「揺らぎ」とは、未知の体験と結びついているのではないかと思う。たとえば、1の次は2、2の次は3…というように、一定の規則に従って流れていくはずの線上に、ぼんやりと「1+1/2」のような数字が半透明に現れたり、3の次に来るべき数字が消えかかっていたり…というように、何か意外なことが起きて、脳に組み込まれている既存の現実感覚を揺るがす瞬間に、脳は「揺らぎ」を知覚するのではないだろうか。

静かな音同士の倍音の共鳴が、音楽に魔法をかけるかのように現実の音の揺れを生み出すと同時に、そこに未知の時空(現実とは微かにずれた場所)への入り口が見えるような気がする瞬間。それは、あたかも印刷された文字の行と行の間に、何か「そこにはないはず」の文字列が浮き上がってくるかのように、聴き手の想像力をアクティブにする。それまで無意識のうちに「予測任せ」になっていた、音楽のあるべき流れを追うだけだった受動的な脳が、初めて能動的に動き出し、そこにあるかもしれない「隠れた何か」を探ろうとするかのごとく、積極的に耳を澄ませ始める。そういう瞬間を生み出す音楽というのが、「揺らぎのある音楽」の正体なのかもしれない。

 

 

 

 

*[music] Toshiya Tsunoda / Manfred Werder 'detour

Since Toshiya Tsunoda / Manfred Werder 'detour' was released last year, several people asked us about the concept and details of the collaboration, so I posted some text I wrote based on what Toshiya and Manfred told me about the piece. 

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On 'detour', Toshiya Tsunoda did all the recording himself (except for 10 minutes of the temple recording part, which was done by Manfred), but it was done by Tsunoda keeping Manfred's involvement deeply in mind, along with Werder's concept and score, and using Werder's method. 

They exchanged many long, involved e-mails before meeting in person, discussing concepts and how their perspectives overlapped and didn't overlap. They spent some time together in Tokyo in the spring of 2014, prior to production, to further develop the concept and the method of recording by making some test recordings together in Tokyo. This earlier stage of collaboration helped to structure the actual recordings later on. So Werder's contribution to the piece was crucial, even though he was not so much involved in the actual recordings.

Werder also told us: "The reason why I particularly like this collaborative piece with Toshiya is that it was able to avoid the conventional risk that many collaborative works tend to fall into - something like a patchwork of two or more musicians' material. Our collaboration certainly exists in the layers of the recordings, as well as in the realms of imagination and reality that might be evoked by those layers.

There are some parts of 'detour' (near the end) that sound like processed sounds, but they are all nature sounds, and Tsunoda did not add any processing to this work. He placed a stethoscope on the floor, which picked up unexpected sounds (like insect chirps) that are inaudible to the human ear, which may sound like electronics in the piece (but there are no actual electronics in 'detour').

英語と日本語

この数日、iPhone 6 Plusの操作にすっかりなじんでしまっていたら、今日久々にMacBook Proを開いて操作しようとした時に、「おや、画面を何度タッチしても全然反応しないじゃないか」と慌てたけれど、ああそうだこれはタッチスクリーンじゃなかったんだったと気づくまでに1分もかかってしまった。

日常生活の中で、脳内の英語と日本語のシステムを切り替えるというのは、同じパソコン内でMacとWindowsのシステムを瞬時に切り替えるようなもので、ちょっと混乱を覚える。なので一度英語環境になじんでしまうと、日本語を使う機会がめっきり減ってしまう。

アメリカ社会の特定の分野である程度認められるためには、やはり一つでもいいから英語を使って公の場に何らかの業績を残さなければならない。そう思って、この数年はあえて日本語を使わずに、文章を発表する時はなるべく英語で書いてきた。その集大成として仕上げたヴァンデルヴァイザー関連の長い英文エッセイが、去年「surround」という音楽評論サイトに掲載され、それなりの評価を得ることができた(と思う)。とりあえず、英語圏に向けて何かを発信するという渡米以来の大きな目的は達成できたので、そろそろまた日本語を使い始めてもいい頃かなと思っている。

それにしても、このsurroundというサイト、重すぎてスマホ画面で見るのがつらい。早くさくさくしたスマホ版に切り替えてほしいものだ(と管理者にも依頼中)。

久々のブログとPB2400の話

はてな有料オプションの期限がしばらく前に切れたのでそのままにしておいたら、いつの間にか広告バナーが雑草のようにはびこって見苦しくなっていたので、再びはてなプラスを申し込んで広告を非表示にしました。これですっきり見られます。

このブログも放置しっぱなしでなく何とかしなくては…と思って読み返していたら、今年はなんとたった3回しか投稿していなかったと知って唖然。この数年、英語圏で生活していく便宜上、どうしても英語を使うのがメインになっていたのですが、ふと気がつくともうずいぶん長いこと日本語で文章を書いたり日本語を話したりしていなかったなと、これも唖然。このままでは日本語の使い方を忘れてしまいそうなので、これからは時々リハビリのためにも日本語で書くようにします。日々の発信はツイッターなどの方が便利なので、ついそっちでつぶやきがちですが、このブログに投稿してきた過去のエントリーは、そのうち取り出してどこかにまとめておこうと思います。


上の写真は、15年前に初めてニューヨークに音楽取材に来た頃に使っていたPowerBook 2400c。久しぶりに取り出して起動してみたら、なんとまだ生きていた。確か中古の機種で35万円位したように思う。よくマンハッタンのスターバックスやカフェに持ち込んで、CDウォークマンで音楽を聴きながら、前の日に取材したライブのリポートを書いたり、翻訳の仕事をしたりしていた。小振りで曲線のきれいなデザインとキーボードの軽いタッチが気に入っていて、このPowerBookで文章を書くのがとても楽しかった。デジカメで撮影した画像をPowerBookに取り込んで、書きたてのライブ評をメールで雑誌社に送ったり、世の中、なんて便利になったんだろう…と当時は感動したものだけれど、今はiPhoneひとつでほとんどの仕事が済んでしまうのだからもっとすごい。

時代が変わっても一生心の中で愛し続けるデザインというものがあるとしたら、私の場合は、90年代に乗っていたホンダのビートと、このPowerBook 2400cかもしれない。iPhone 6 Plusも、いずれその殿堂入りを果たす日が来るかも。

Michael Pisaro 'Continuum Unbound' (GW011-013) box set has released!

Michael Pisaro's new and the most ambitious works: 3CD box set 'Continuum Unbound' (GW011-013) just came out from our Gravity Wave label. The box set contains 3 CDs and a 12-page full color booklet of Michael Pisaro's essay. You can see the details of the box set and can order from here.

Limited edition of 500 copies. ($50 plus shipping)


My new baking blog started


I started a new blog about my recent obsession with baking artisan breads, inspired by the master bakers/authors Chad Robertson and Ken Forkish. The URL is here:

http://bakingartisanbread.blogspot.com

I may still post about music or some other topics once in a while here, but the above new blog will have more frequent updates. In the future, I will launch another new blog about music, where I will move all my writings on music from here (so the music fans will not be confused with my other food-related posts).