個人と環境の分離体験について


少し前に、音と音楽の分離体験について思うことを書いたのだけど、人間と生まれ育った環境との関係にも、同じようなことが当てはまるかもしれないと、ふと思った。

生まれ育った土地で長年培った記憶から、ネガティブな記憶や感情をすべて取り除くことは難しい。それは別の土地に移り住んで、時間と距離を置くことにより、初めて可能になるのかもしれない。もちろん、土地にも人間と同じように「性格」があるので、心地よく暮らすためには、自分と土地との相性自体も大事なのだけれど。

外国に移住した人が、新しい国の習慣や社会システムに適応するには約三年かかるという話を、在米日本人向けのカウンセラーを取材した時に聞いたことがある。新しい社会システムに適応するということは、生まれた時から母国で「当たり前」のように身につけた習慣を一度捨て去り、ゼロから新しい習慣を学んでいくという努力を要する。時には、自分の中でそれまで信じていた常識から自分を解放しなければならないという状況も生じる。この過程は結構苦しい。過去の習慣や社会システムと深く結びついていた様々な感情が、日常の中で新しい習慣や社会システムでの常識とぶつかり合い、脳の中に葛藤を起こし、混乱を生じさせるからだ。

それでも確かに、三年経つと、ようやく移住先の国のシステムに心と身体が慣れてきたという感じがしてくる。地下鉄の乗り継ぎもスムーズにできるようになり、銀行の使い方にも慣れてくる。パソコンやカメラが壊れた時にはどこに持っていけばどのくらいの日数で直してもらえるとか、病気になったら何科のどの医者に診てもらえば良いのか等、緊急時の対応の仕方もわかってくる。そうなって初めて、新しい国の「流れ」に乗って日常を生きられるようになる。

それと同時に、移住当時に自分の中で葛藤を起こす要因となっていた過去の環境(たとえば日本)に対する記憶の質も変わってくる。適応の過程で脳を混乱させていた、過去の環境に付随した様々な感情が、三年という月日の間にいつの間にか消えていることに気づくのだ。それはおそらく、脳が混乱を避けるために、その要因となる感情的な反応を排除しようとする、自己防衛本能のためかもしれない。

生まれ育った土地に対する感情的な反応が消失した時、その土地は全く違う場所のように見えてくる。もちろん、風景自体は見慣れたものなのだけど、その風景をかつて見ていた時に自分の中に呼び起こされていた様々な感情が、すっかり消えているのに気づく。子供の頃に知らない人に追いかけられて怖い思いをした道とか、職場のストレスを抱えながら通勤していた時の渋谷の雑踏とか、以前は歩くたびにネガティブな感情がよみがえっていた場所を今歩いても、そうした感情はすっかり消えている。記憶としては、いつ何がどこで起きたかということは事実として覚えているのだけど、その記憶にまつわる愛憎入り乱れた「感情的な反応」は、風化されて消えている。これは素晴らしい体験だ。

東京はなんて住みづらい所なのだろうと感じていた時もあったけれど、それは東京という土地のせいではなく、そこで幼少時から好むと好まざるとに関わらず身につけてしまった「感情的な反応」という付加物のせいであったのだと知るのは、自分にとって大きな発見だった。諸々の負の感情がすっかり消えて、自分が生まれ育った街をありのままの存在として受け入れ、再び好きになれるというのは、なんと素晴らしいことだろう。音楽の聴こえ方も、以前とはどこか違う。こうして、自分の個人史の中で身についた「付加物」が取り払われた時、日本人としての核にあるDNAの求めるものが、初めて意識されるようになるのかもしれない。