The Cleveland Orchestra (Franz Welser-Möst) perfomed Shostakovich - Symphony No. 4

2016年1月17日(日)7:00PM開演 @カーネギーホール

The Cleveland Orchestra conducted by Franz Welser-Möst

PROGRAM:
Hans Abrahamsen - let me tell you (NY Premiere) by Barbara Hannigan (soprano)
Shostakovich - Symphony No. 4

クリーヴランド管のライブ公演を聴くのは、昨年7月にリンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールで、ベートーヴェンの「田園」をフランツ・ウェルザー=メスト指揮で聴いた時以来の二度目。今回は、特に響きの良いカーネギーホールでの公演だったので、このオーケストラ独特のクリーンな響きの美しさを堪能できたように思う。その公演の感想を2回に分けてTwitterで連続投稿したものを、記録として以下に転載します。

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1月17日(日)

クリーヴランド管、 何てすごいオーケストラなのだろう。カーネギーホールがこんな清浄な空気に包まれたことはない。先日他界したピエール・ブーレーズに捧げられたという今日の公演。もしブーレーズショスタコーヴィチを指揮していたら、こんな演奏だったかもしれないと思わせる透明感と凄みのある演奏だった。どちらの曲も演奏が終わった後、ウェルザー=メストがそのままの姿勢で指揮棒を15秒くらい下ろさず、ブーレーズへの思いをその場にいた全員で共有するように、沈黙の中でじっと静止していた。今までにカーネギーホールで体験した、最も深く濃い沈黙の時間だった。

(・・・と、帰宅途中のプラットホームでここまでツィートして、あまりにも興奮していたので思わず逆方向の地下鉄に乗ってしまいそうになり、慌てて気づく。帰りに逆方向の地下鉄に乗ってしまいそうなほど感動したコンサートは、昨年6月のサンクトペテルブルク・フィルのショスタコーヴィチ5番を聴いた時以来。ショスタコーヴィチには、磁場を狂わすパワーがあるのか。以下は、帰宅後のツィートから。)

最初の演目、ハンス・エブラハムセンの新作「let me tell you」(NY初演)では、演奏後、割れるような拍手が長い間続いていた。菅と弦とソプラノが、同じ高音を出している時の、絹のような音色の驚くべき一体感。しんと静まり返ったホールに響く、高音ピアニッシモのヴァイオリンの合奏部では、柔らかな質感の透明な衣が優雅に舞いながらホールの空間に広がり、客席を包み込んでいくような、この世のものとは思えない妖艶な、それでいて清らかな美を醸し出していた。

バーバラ・ハンニガンのソプラノの濁りのない澄んだ歌声と、ヴァイオリンやフルートの高音の柔かな響きが、どちらが声でどちらが楽器の音がわからないほどの均一な質感と同じ繊細なニュアンスでひとつに溶け合っている。普段はメインの前の前菜のようにあっさり聴かれがちな現代作曲家の作品で、これだけ会場が静まり返り、広いホールが濃密な空気で満たされ、最後に割れるような拍手喝采で観客が沸いたのを見たのは初めてだった。翌日の「NYタイムズ」紙の評でも、この時の観客の反応のことが特筆されていた。

 

現代音楽曲の新作の指揮で大きな拍手喝采を浴びるのは、通常はヴァーチュオーゾと呼ばれる巨匠指揮者だけだが、日曜のカーネギーホールでは、クリーヴランド管を指揮したフランツ・ウェルザー=メストが、ハンス・エブラハムセンの新作「let me tell you」のニューヨーク初演の後に、まさにその拍手喝采を浴びていた。(NYタイムズ紙 1/18/2016)

 

次のショスタコーヴィチ交響曲第4番では、エブラハムセンの作品の演奏とは打って変わって、冒頭から水しぶきをあげて突き進むような鮮烈で切れの良い音で始まった。作曲の構造の隅々まで見えてきそうな理知的で精緻な演奏なのに、冷たさは全く感じさせず、澄み切った明晰な音の連なりや重なりの奥に、生き生きとした躍動感と力強い生命力を感じさせる演奏だ。

一つ一つの楽器の音の分離は驚くほどクリアなのに、オケ全体の音色が一つの線となって進んでいくような一体感がある。一本の細い弦の音色かと思ったら、弦楽器全員で演奏しているのを見て驚くことも何度かあった。金管からハープのソロへ、そして弦の合奏へと、違う楽器間でパートが受け継がれていく所も、あたかも一本の線上を流れていくように、音質の違う楽器でありながら同じ音圧で継ぎ目なく繋がっていく。誰がどの音を出しているのか、近くで見ていてもわからないくらい均一な音で、誰一人突出することがない。

昨年リンカーンセンターでクリーヴランド管のベートーヴェン「田園」を聴いた時は、音響の悪いとされるエイヴリー・フィッシャー・ホールで、しかもステージからかなり遠い席だったにも関わらず、今日と同じようなオーケストラの音色の統一感と透明な空気感、弱音の繊細なニュアンスまでもがリアルに伝わってくるのに驚いた。

今回は、ステージのほぼ左真上から見下ろすような席だったので、演奏の直接音がよく聴こえ、オーケストラの奏者一人一人の動きがよく見えたのも良かった。このオーケストラは、楽器の音色の一体感だけでなく、弓の動きなど奏者の動きまでもがぴたりと統一されているのが凄い。渡り鳥の群れが美しい編成の形を自在に変えながら優雅に飛行していくかのように、ひとつになって演奏するクリーヴランド管弦楽団。それを導くウェルザー=メストが、神のように見えた。オケ全体のチューニングと各楽器の音程がぴたりと正確に合い、最も純度の高い濁りのない音色で演奏されると、これほどまできれいにホールの隅々まで音が届くものなのか。ブーレーズが作り上げようとしていたオーケストラの音の世界というのは、こういうものだったのかもしれない。

今日のクリーヴランド管の演奏の、全く濁りのないピュアな響きの純度は、ブーレーズクリーヴランド管のマーラーストラヴィンスキーベルリオーズのCDを聴いた時の音と同じ印象だった。数本の光の線が平行して進み、近づき、重なり合い、遠ざかっていくのを眺めているような、透明な音の層の美しさ。弦の合奏や管の合奏の時に、何本もの透き通った光の柱が並んで立ち昇っていくのを天から眺めているようなあの美しさは、ちょっと通常はカーネギーホールでも体験できない現実離れした世界だった。クリーヴランド管、何というオーケストラだろう。

あれだけ近い席で聴くと、オケによっては金管の音などが響きすぎて耳に痛いことがあるのだけど、クリーヴランド管は、打楽器総動員でシンバル鳴り響き状態の大音量で演奏していても、音が塊になってぶつかってくる感じは全くなく、迫力は十分あるのに風通しの良い音が抜けていくという清涼感があった。低弦やファゴットコントラバスバスドラムなどの低音も、濁りがなく、分離の良さと切れの良さに驚いた。

冒頭の写真は、ショスタコーヴィチ4番の終演後、4度目のカーテンコールの後のウェルザー=メストクリーヴランド管。この後も長い間、拍手が鳴り止まなかった。

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1月18日(月)

昨夜は、クリーヴランド管の演奏の凄さに圧倒されて、興奮のあまり帰宅途中から始めた連投ツィートの後、9時間も熟睡してしまった。昨日はクリーヴランド管の演奏の印象について主に語ったので、今日はショスタコーヴィチ交響曲4番という曲について思ったことなどをつらつらと。

この4番という曲は、他の指揮者とオーケストラのCDで聴いた時には、あちこちに飛ぶ曲調の変化と、繋がりの唐突さに戸惑って、途中で気が散ってしまうことがあったけれど、クリーヴランド管の昨夜の演奏は、一瞬たりともゆるみのない緊張感と流れの自然な美しさに引き込まれて、冒頭から終わりまで耳が釘付けになった。

ショスタコーヴィチ交響曲第4番は、5番以降の交響曲に比べると、政治的な要素や恐怖などの心理的な要素がそれほど強く現れていないので、「交響曲」というものの構成の面白さを純粋に楽しめる曲なのだなと、昨日のクリーヴランド管の演奏を聴いていて思った。まさに交響曲(響きが交わる曲)の異なる楽器の音の層が生む響きや、その響きが与える純粋な音響的効果、そして楽器から楽器へと音の響きが受け継がれていく時の流れの妙など、音そのものの響きの美しさを楽しめる曲だ。そして各楽器の響きの純度が高ければ高いほど、オーケストラ全体のチューニングと演奏者の音がぴたりと揃えば揃うほど、その効果を大きく感じられる、聴きどころが満載の曲だと思う。

そうしたショスタコーヴィチ4番の魅力でもある複雑な音の重なりや連なりが生む構造の美しさを、あたかも澄んだ水底をのぞき込んでいるかのような透明度と明晰さで見事に見せて(聴かせて)くれたのが、昨夜のカーネギーホールでのウェルザー=メストクリーヴランド管の演奏だったと思う。

ショスタコーヴィチ交響曲の魅力は、和音や倍音が生む水彩画や油絵のような色合いの滲みの美とは違い、ロシアの構造主義美術のような、幾何学的な図形や線が各々に純度の高い形や色の違いを際立たせつつ、清廉と澄み切った空気の中で全体としての見事な調和を保っている、そんな音楽だと思う。そこでは、幾何学的な線や図形の接点に曖昧な滲みは生まれず、純然とした分離感を保ったまま、すっきりした全体の構図の中で完璧なダイナミクスのバランスが保たれている。ウェルザー=メストクリーヴランド管は、まさに、そうしたショスタコーヴィチ構造主義的な美しさを見事に体現していた。

そして、第2楽章までの機械的なリズムとテンポで緊張感溢れる演奏を繰り広げた後、第3楽章でパロディ的に挿入されるシュトラウスのワルツの一節を振る時の、ウェルザー=メストの指揮の優雅なことと言ったら。ウェルザー=メストの指揮のエレガントな側面が、きらりと光ったような瞬間だった。

昨年、同じカーネギーホールで聴いたサンクトペテルブルク・フィルの5番は、ショスタコーヴィチが当時のスターリン粛清下で、人間として芸術家として、ぎりぎりのところまで追い詰められた崖っぷちの精神状態の中に立ちながらも、最後まで譲れなかった人間としての尊厳と美への執着、逆境と批判と悲痛の中で精神が切り刻まれ自信を失いそうになりながらも、自分が創り出す作品の価値を信じる気持ちを失わなかったという凄みが、じわじわと伝わってくるような名演だった。一方、今回のクリーヴランド管の4番は、ショスタコーヴィチが純粋な交響曲の作曲に徹底して取り組んだ、その凄まじい「美への執着」が、ありありと伝わってくるような演奏だった。スコアの奥にあるショスタコーヴィチの美意識を、濁りのない明晰な視線で見据えて表現したウェルザー=メストはやはりすごい。

昨日の公演をブーレーズに捧げるというのは、おそらく後から決まったことなのだと思うけれど、それでもその気持ちが指揮者と楽団員一人一人の心にあったのか、実際にブーレーズの指揮の氷のようにシャープな明晰さと透過度を思わせる演奏だった。じっと耳を澄ませると、クリーヴランド管の団員たちが、皆ブーレーズのことを思いながら演奏しているのが伝わってくるような気がした。そして、演奏が終わった後の15秒あまりの黙祷の静寂の中では、それまで聴いていた演奏が、ゆっくりと深く観客の心の中に刻み付けられていくような気がした。

このクリーヴランド管のショスタコーヴィチ交響曲第4番の演奏の明晰さと透明度は、あたかも全身が光のシャワー(時には光の洪水)に包まれるような、カーネギーホールでもめったに得られない体験だった。いつかCDでも聴いてみたいので、ぜひどこか条件の良いホールで録音してほしい。(カーネギーホールは観客の咳き込みの音がひどいので、録音しても編集が難しそうですが…。)

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余談ですが、カーネギーホールもようやく入口でのセキュリティーチェック(金属探知器とバッグの中身検査)が始まったようです。今まではあまりにも無防備で、チケットさえ持っていれば誰でも入れるのは危ないなあと思っていたので、良かったです。

それにしても、あのクリーヴランド管の、時として楽器の音とは思えない、光の洪水のごとくステージから発散されて聴覚とは違う感覚に飛び込んでくるような音は一体何なのだろう。特に、ヴァイオリンや金管の合奏部。ボストン響だったら、あくまでも楽器の集合体の音として聴こえてきそうなのだけど。時間が経った後にも、演奏の響きがいつまでも聴覚だけでなく視覚にも焼きついて残っているような、不思議な印象があった。

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【追記】1/19/2016

CD: Shostakovich: Symphony No. 4(Bernard Haitink / Chicago Symphony Orchestra)


一昨日のクリーヴランド管の演奏を聴いて、ショスタコーヴィチ4番にすっかりはまってしまったので、ハイティンクとシカゴ響の盤をSpotifyで聴いている。すっきりした明瞭さで交響曲の純粋な響きを味わえる点や、大音量のパートが悲鳴や慟哭にならずに、澄んだ光のシャワーを浴びるような清々しさで聴ける点が似ているかも。これも4番の名演と呼ばれているそうですね。

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