Erstwhile 22 Live @ Issue Project Room, Brooklyn NYC (2008)


ブルックリンの〈Issue Project Room〉は昨年、同じFトレインのキャロル・ストリート駅から徒歩で行ける別のロフト風の建物に移転したのだけど、ここは以前のムーミン屋敷風の八角形の(というか円形に近い)スペースに比べて、音響も悪くないので結構気に入っている。幅は狭いが、縦長に奥行きのあるスペースで、何よりも天井がものすごく高いので解放感がある。天井からは15個のスピーカーが吊るされ、コントロールの仕方によっては自由に音を行き来させることができる(といっても、まだそういう使い方をした人の演奏を聴いたことは1回位しかない。)


■1st Set: Jason Lescalleet / Bhob Rainey



5月24日の最初のセットは、ボストン・シーン注目のミュージシャン、ジェイソン・レスカリートとボブ・レイニーのデュオ。ボブ・レイニーは同じくボストン在住のグレッグ・ケリーとつるんで良く共演しているが、彼らはアメリカの即興演奏者には珍しく、欧州や日本の即興演奏家たちの繊細さや抑制のきいたバランス感覚に近いものを持っている貴重な存在でもある。この人の「Bhob」という名前は発音が微妙に難しく、「ボブ」と単純に呼ぶよりは、「ブホブ」と発音するつもりの口の形でさりげなく「ホ」を隠して発音する…というのがコツのようだ。それはともかく。

このレスカリートとのデュオでは、ボブ・レイニーが観客(80人位)の真ん中あたりに位置を取り、冒頭からソプラノ・サックスを非常に抑制のきいたブレス音で静かに吹き始め、レスカリートは数分間、じっとそれに聴き入っているという形で始まった。演奏が始まる直前、レスカリートは、レイニーの前の譜面台に4台の小型テープレコーダーを並べ、録音のスイッチを押した。

レイニーの静かなブレス音の即興が数分間続いた後、レスカリートはおもむろに立ち上がり、レイニーの前の譜面台に置かれたテープレコーダーを1台手に取り、それを持ったまま客席の後方までゆっくり歩いていき、床に置いて再生ボタンを押した。この動作を時間をかけて繰り返し、レスカリートはレイニーの演奏を録音したテープレコーダー4台を、部屋のあちこちにバラバラに置いて再生する一方、そのうちの1台か2台を自分の機材の所まで持ち帰り、PAを通して頭上のスピーカー15台から流したりした。レスカリートの一連の録音/再生作業の傍らで、ボブ・レイニーはソプラノ・サックスによる微音の即興演奏を続けていた。

つまり、会場では、次の3種類の音が入り混じって聴こえていたことになる。
(1)ボブ・レイニーが演奏するリアルタイムのソプラノ・サックスの音
(2)カセットの付属スピーカーで再生される、少し前に録音されたレイニーのサックスの音と室内音
(3)スピーカーを通して頭上から聴こえる、別のカセットから再生されるレイニーのサックスの音と室内音*1

                                                                                                                    • -


この2人の演奏で印象的だったのは、微細な変化を見せるレイニーの静かなサックス音をレスカリートが全く殺すことなく、むしろレイニーのソロ演奏を聴いているような錯覚すら覚える瞬間があるほど、テープの再生音(スピーカーを通した音でさえ)が抑制されていたことである。普段、轟音のライブで観客を圧倒することが多いレスカリートの演奏に慣れていた身としては、意外な体験でもあった。と言っても、レスカリートが部屋のあちこち(と頭上のスピーカー)で再生していたテープの音が、生音に紛れて消えてしまうわけでもなく、立体的にどこかで何かが鳴っているという皮膚的な感覚は、しっかり伝わってきた。室内の音響により、次のセット用に部屋に置かれていたショーン・ミーハンのシンバルに振動が伝わり、無人のドラムセットから微かな金属音が鳴り出すという場面もあった。


演奏の終盤近くには、レイニー1人のサックスの生音のみに戻ったのかと思うと、実はレスカリートが再生するテープの音のみであり、レイニーはサックスから口を離して吹いていなかった…というような、意外な光景も見られた。長い時間をかけてゆっくり展開する2人の演奏の中で、どちらが優位に立つということでもなく、かといって一つに溶け合い個性を没するというわけでもなく、レイニーはレイニーらしいサックス演奏を、レスカリートはレスカリートらしいテープの妙技をじっくり聴かせてくれたライブだった。


■2nd Set: nmperign (Greg Kelley / Bhob Rainey) / Sean Meehan



グレッグ・ケリーとボブ・レイニーのデュオ〈nmperign〉は、過去にもライブで何度か観ているが、この2人のデュオは、いつ聴いても少々息が合い過ぎではないかというくらい、見事に息が合っている。ケリーのトランペットとレイニーのサックスが、ブレスやマウスピースや薄い金属板などの特殊なミュートを随所に取り入れつつ、あたかも1本の楽器から音が生まれるかのごとく、繊細なニュアンスの即興を展開する。これだけ完ぺきに抑制をきかせた微妙な即興演奏を聴かせてくれる在米即興演奏家は、アメリカ広しといえども稀だと思う。ボストン即興シーンが、国内でも極めて高く評価されている背景には、彼らの存在があると思う。

今回のショーン・ミーハンを加えたトリオ演奏も、いつも通り、適度に抑制されたバランスを終始失わず、目を閉じた3人の演奏家があたかも同じ一点を見据えながら即興を展開しているかのように、静けさと緊張感を保っていた。時折、3人のうちの1人の音が微かに優位に立ったり、音楽がやや高なったりと変化を見せることもあったが、それらは微細な変化であり、波の満ち引きのごとく、きわめて自然な流れに感じられた。

非常に完成度が高い安定した即興演奏という点では、ほぼ満点の演奏だったかもしれない。唯一、気になったのは、その完成度の高さゆえ、彼らの力量から予想される〈期待通りの演奏〉であった点だろうか。もちろん、そうした抑制されたバランスを終始保ち続ける完成度の高い即興演奏こそが、彼らの目指すものなのかもしれないけれど、個人的には、グレッグ・ケリーもボブ・レイニーも、〈nmperign〉というデュオによる完ぺきに息の合った演奏よりも、各自のソロや他の共演者(レスカリートなど)との組み合わせの中で聴いた時の方が、それぞれの個性と表現の可能性がより突出して感じられたような気がする。


■3rd Set: Graham Lambkin/Jason Lescalleet: CD Release Show



グレアム・ラムキンというアーティストは、今年になるまで知らなかったのだが、ソロ作『Salmon Run』を初めて聴いて以来、この人がもつ独特の〈ゆらゆらとした狂気〉というのに魅了された。ジョン・ティルバリーのピアノに宿る妖艶な狂気にどこか似ている気もするが、この〈ゆらゆら〉とした感じは、ラムキン独特の持ち味だと思う。清らかな聖歌が遠くから聴こえてくる次の瞬間に、耳元で突然、雪男の笑い声が不気味に響く…というような展開を、ごく日常的に起きそうな感覚で思いついてしまう天然さが凄い。失礼かもしれないが、マーカス・シュミックラーが虚空を見つめたまま脱力して居眠りしてしまったとしたら、この人の雰囲気に最も近づくかもしれない。

ジェイソン・レスカリートのライブは、以前も何度か見ているが、この人の機材を一体何と呼べばいいのか、いつも分かりかねる。机の上には、ラップトップやターンテーブルやテープ再生機や金属製のお椀などの他、アナログ的な音が出そうな機材がいろいろ置いてある。一方、グレアム・ラムキンの方は、ミキシングボード、CDプレイヤー、サンプラー等、おそらく用意してきた音素材を再生するのに使われるとみられる機材が置いてある。演奏中のライブの音を拾ってプロセスさせるためとみられるマイクも用意してある。

この2人の演奏は、まずレスカリートが出すスクラッチ・ノイズで始まり、やがていくつかの似たようなノイズの層が重なっていくという展開で始まった。冒頭の数分間、ラムキンは客席の後方に引っ込み、一人瞑想しながら歩く僧のような風情で、ゆっくりと部屋の隅を横断していた。パフォーマンスというよりは、ただ単に、観客で埋め尽くされた部屋の密度の高い空気に体を馴染ませるために、歩き回って気持ちを落ち着かせたい様子だった。ラムキンは、しばらく歩き続けた後、機材のある机に戻り、水の音などのフィールド録音や、聖歌風のクラシック音楽などを徐々にかぶせていった。ラムキンのソロ作『Salmon Run』やレスカリートとのデュオ新譜『The Breadwinner』を聴いた時もそうだが、この人のクラシック音楽の選び方や挿入のタイミングのセンスには、いつも新鮮な驚きを覚える。

レスカリートがターンテーブルのスクラッチや金属ボウル、コンタクトマイクの音など、現実に密着した生活感のあるノイズを出していくのに対し、ラムキンはどこか遠くの、現実とはかけ離れた空間で鳴っているような幻想的な音を重ねていくのが、面白い異化効果を生んでいた。この2人の現実感/非現実感を常に対比させたサウンドが、様々な素材やサンプリングを用いて展開される一方で、それらが単なる混沌や狂気の沙汰には陥らず、常に凛とした芯を音楽の中に冷静に保ち続けていたところに、この2人のバランス感覚(主にレスカリート)と美意識(主にラムキン)が生かされていたように思う。

演奏は終盤に向かうにつれて、遠くから迫りつつある嵐のごとくじわじわと迫力を増し、最後にはレスカリートによる絶叫が会場を貫いた。暴風のため崖から落ちて骨折した飼い犬を前に自然の猛威に対する行き場のない怒りと愛犬の痛みを察するがゆえの悲しみに打ち砕かれた男の絶叫という風情もあったが、ライブの後で聞いてみると、これはどうやら〈キッス〉の有名な歌だったらしい。




■ライブ後記

この日の3セットを通して聴いてみると、終始抑制された静かな音で構成された最初の2つのセットと、多様な音が重なり合って迫力を出していた最後のセットとのコントラストが、各々のセットを引き立たせるという効果を出していたのが面白かった。ニューヨークのこの種のライブで観客が80人近く集まるというのは異例のことで、ボストン組のミュージシャンのファンや、アヴァンロックバンド〈The Shadow Ring〉時代からのグレアム・ラムキンのファンも含めて、ノイズと即興にまたがるファンが多く集まったのも印象的だった。

特筆すべきは、1セット目と3セット目で、時には脇役として、時には対照的に存在する別個の力強いパワーとして、それぞれの共演者の個性や音を際立たせていたジェイソン・レスカリートの演奏だった。ラップトップなどのデジタル機器をモニターとして利用しつつも、表現する音自体はアナログの質感を大切にした独特の世界を貫いている。その姿勢には、どんなにテクノロジーが進歩しようとも、人間であることを常に忘れずに音楽と向き合おうとするレスカリートの真摯なあり方が見えるような気がした。

*1:ライブの後でレスカリートに聞いた説明によると、1セット目のレイニーとの共演時には、最終的には4台すべてのテープレコーダーの再生音を、各々の速度を変えて、PA経由でスピーカーから同時に流していたらしい。