久々の読書


 毎週締め切りに追われる生活から先週から1週間だけ解放されたので、久しぶりに映画を観たり本を読んだりして過ごしている。締め切りのない1週間というのは、こんなにもゆっくりと、濃い時間が流れていくものなのか。

 昔は一晩で読み終わってしまった日本の小説を読むのに、今は5日くらいかかっている。以前は気づかずに読み飛ばしていた東京の日常などの描写に、いちいち深い情緒を感じてしまい、ほんの1行を、放心状態で30分くらい凝視していたり、1頁に書かれた文章を何度も読み返していたりする。1冊の小説の中に、これほど多くの情景が盛り込まれていることに気づくようになれたのも、アメリカで暮らすようになったおかげかもしれない。

 英語で書かれた文章を理解するのは、ある意味で記号の組み合わせの解読に似ていて、まず単語の形と、その組み合わせに目を通せば、ほぼ意味することがわかるので、慣れてしまえばパズル解きのようにささっとこなせるようになる。が、日本語だと、それ以上に何かじかに肌を刺すような「衝撃」というものが、文章からストレートに飛び込んでくる。この衝撃というのは、「漢字」から彷彿される「イメージ」または「想像力」によるもので、そこには英語の曲線のように滑らかなつらなりや、単なる言葉の理解を超えた、三次元的な「奥行き」というものがある。どの単語にどれだけの奥行きが感じられて、どのくらい広がりのあるイメージを喚起させるかは、個人の経験や嗜好や育った環境などによってまったく違うというのも面白い。たとえば、「ツツジ」と「金木犀」と「垣根」という言葉が立て続けに出てきただけで、私の場合は、武蔵野の実家の庭とその付近の路地の風景がありありと浮かんできて、しばらく数十年をさかのぼる過去の記憶の中をさまよってしまう。「図書館」という言葉を読んで頭脳をよぎるさまざまな図書館の懐かしい記憶だけでも、1日過ごせそうな気がする。