ロスコ・チャペルのコンサート評

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まず、現代美術館でコンサートがあると聞いた時は、モダンアートと実験的な即興音楽の両方を同時に楽しめる一石二鳥のイベントだと安易に思っていたのだけれど、実際には、それは予想していたのとはかなり違う体験だった。

一流のアート作品には、強烈なパワーがある。それは、芸術家の個性と才能と努力が結集されて生まれた作品に、永久的に宿っている静かなエネルギーでもある。巨大な無人の空間にアート作品がぽつんと置かれているだけでも、その作品が放つ無言のエネルギーは、その空間を濃密な存在感で満たしている。 MOMAのように、大勢の人が展示室を出入りしている場所では、そうした作品が放つパワーがやや薄らいで感じられるが、誰もいない展示室で見るアート作品の存在感には、圧倒的なパワーが感じられる。

今回のロスコ・チャペルのマーク・ロスコの絵画も、リッチモンド・ホールのダン・フレーヴィンの蛍光インスタレーションも、誰もいない時間に訪れてみた時には、作品自体が強烈な存在感を放っていた。無人のチャペルの真ん中に1人で立ってみた時や、無人のリッチモンドホールの入り口付近から蛍光インスタレーションの列を見渡した時に、その空間を満たすとてつもないパワーをありありと感じることができた。


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初日のロスコ・チャペルのコンサートでは、中央の円形スペースの中でミュージシャンが演奏し、その周囲を観客の列がぐるりと囲み、背後にロスコの巨大な黒い絵画があるという状況だった。それぞれの音楽については、また後に触れるが、巨大な絵画の放つパワーを背後に受けながら、目の前で即興音楽を聴くという行為は、非常に特殊な状況だったと思う。実際には、ロスコの絵画のパワー(又はエネルギー)も、キース・ロウやローレン・コナーズの独特の音楽から生まれるパワーも、チャペルという同じ空間を満たしているので、2つの異なる強烈な個性が同時に存在しているという感覚があった。

キース・ロウもローレン・コナーズも、どちらもロスコの作品には過去に多大な影響を受けているので、もちろんあの空間で演奏していた時には、どちらもロスコの作品に囲まれて演奏することの喜びを感じ、強烈なインスピレーションを受けていたのではないかと察する。といっても、演奏者たちの個性とロスコの個性が、そう簡単にひとつに融合したり、調和できるものではないと、実際のライブ演奏を聴いていて感じた。どちらも、演奏の冒頭から中盤にかけては、通常には感じられないような「ずれ」や微かな戸惑いが感じられた。ロウもコナーズも強烈な個性を確立しているミュージシャンなので、その「ずれ」というのは本当に微かなものだったのだが。

通常のライブなら、ロウもコナーズも、音楽の最初の一音から観客を彼らの独自の世界に引き込むことができていたと思う。(というよりも、観客が彼らの演奏の世界に入り込むことができるという方がふさわしいかもしれない。)でも、ロスコ・チャペルという空間では、これはあくまでも私自身の体験ではあるが、いつものようにすーっとその音楽の世界に入り込むことができなかった。自然に「音楽に浸る」ことができるまでに時間がかかったのである。「ロスコの絵画も彼らの音楽も大好きであるのになぜだろう?」と、ライブの後しばらく疑問が残った。やがて、それは演奏者と観客の背後にあるロスコ作品の存在感と、ミュージシャン自身の存在感(又は両者の個性)に、わずかな違和感が感じられたことが原因かもしれないと思った。この2つのセットは、ロウとコナーズのそれぞれのソロ演奏でありながら、同時にロウとロスコのデュオでもあり、コナーズとロスコのデュオでもあったのだと思う。

他者との共演に慣れている音楽家とは異なり、アート作家は強烈な個性をもつソロ演奏者のような存在であり、他者との共演は難しいのではないかと思う。ミュージシャン自身が、ロスコの存在感をどのように感じていたかは不明だが、少なくとも観客の1人として私はそんな風に感じた。

とはいえ、冒頭から自分の世界に深く沈み込むように演奏を始めたコナーズの方には、そうした戸惑いをあまり感じなかった。コナーズ独特の、あの遠い記憶の彼方から鳴っているようなギターの音色が、中世ヨーロッパの古い城の廊下の奥から聞こえてくるギター(誰が弾いているのかその姿を見た者は誰もいない)を彷彿とさせる幻想的な音を響かせていた。人間の汚れをまとおうとしたが、最後まで人間になりきれなかった天使のつぶやき、満たされぬ想い、叫び。拭うことのできない清らかさへの嘆き。コナーズのギターを聴いていると、いつもそんな情景が浮かぶ。演奏の終演には、空白の心で静かに絶望を見つめているかのようなギターの音が、背後のロスコの絵とどこか同調しているようにも感じられた。音楽自体は、あくまでもコナーズ独自の世界であったけれど、黒い帳が下りた世界としてのイメージと、かすかな色彩の名残りを感じさせる音楽が、ロスコの作品と共鳴したのかもしれない。

一方、ロウの方は背後から迫るロスコの絵のパワーを受けて、インスパイアされると同時に「そのパワーとどのように共演すべきか」という問いと闘っていたようにも思える。いつもは揺らぎのない意志を持って即興演奏に臨むキース・ロウにしては、珍しく微かな戸惑いのようなものを感じた。もちろん、それはロウの演奏自体というより、聴き手の私自身の戸惑いが影響してそう感じられただけかもしれない。しかし、やがて演奏の最後の数分間に、ふとそれまで感じていた違和感が薄らぎ、チャペルの空気とロウの音楽が微妙なバランスで調和(あるいは和解)したような感じがした。ロウなりに、答えへの糸口を見つけたのではないだろうか。コナーズの演奏の時よりも、聴いていて居心地の悪さのようなものを感じたが、それは演奏者としてのロウが「その場の空気」とよりリアルに真剣に向き合おうとしていたからではないかと思う。

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面白いことに、マーク・ロスコは生前音楽の愛好家として知られ、「芸術の表現手段として最もふさわしいのは音楽である」という考えを持ち、「音楽表現に最も近づく絵画」を制作することを目指していたという。ロスコを敬愛するというキース・ロウは、この逆で、芸術の表現手段として最もふさわしいのは絵画であると信じ、「絵画表現に最も近づく音楽」を目指しているというのは興味深い。両者の作品は、どこまで近づくことができるだろうか。

アートに囲まれた空間での演奏というのは、ミュージシャンにとって大きなチャレンジなのかもしれない。しかし、そのチャレンジが困難であればあるほど、演奏者の音楽が真に試される時でもある。そして、そこで生まれた演奏には、居心地の良い慣れた部屋で演奏された時にはない緊張感があふれていると共に、戸惑いと手探りのうちに新たな突破口が見つかることもある。「即興演奏とはどうあるべきか」という根本的な問いとその答えを探る行為を、演奏者も観客も体験できた貴重なイベントだったのではないかと思う。


※このイベントの2日目のSachiko Mとショーン・ミーハンのデュオのライブ評は、こちら
http://d.hatena.ne.jp/yukoz/20080124