Michael Pisaro - an unrhymed chord (EWR 0801/2) 和文

『an unrhymed chord』は2003年にピサロが作曲した作品で、エディション・ヴァンデルヴァイザーから出ているこの2枚組CDには、2007年に録音された2つのバージョンが収録されている。この曲を演奏するにあたって、マイケル・ピサロがライナーに記した指示(スコア)は下記の通りである。

  • 演奏者の人数は自由。
  • 曲の長さは65分で、各30分間の前半と後半の間に5分間の沈黙を含む。
  • 各演奏者は、1つの音(音程をもつ音が望ましい)を選ぶ。
  • 各演奏者は、選んだ音を、前半後半の各30分間において、一定時間(1分から15分の間)、演奏する。前半に演奏している時は、沈黙のパートに音がかぶらないようにすること。
  • 音の持続時間は、前半と後半で異なること。
  • 音の持続時間のうち、1度はゼロ秒でもよい。(例:演奏者は、前半と後半のうち、いずれかは無演奏でもよい。)
  • 音を出したら、自分で決めた持続時間の間、そのままの音を保つ。もしそのままの音を保つのが不可能であれば、長い音を一定の間隔を置いて繰り返す。
  • 音の大きさは、その持続時間に反比例させる。(例:持続時間が長いほど、音は弱くなる。)1分間持続する音は、心地よいメゾピアノ(やや弱く)。15分間持続する音は、ほとんど聴き取れないほどの弱さとなる。

■CD1:an unrhymed chord (65分)

  • コンセプト実現者/グレッグ・スチュアート(パーカッション)

このバージョンでは、グレッグ・スチュアート(パーカッション)が、様々な種類の打楽器の他、家事に使う道具や造形芸術に使う素材(金属、石、粘度、セラミック、皮など)を用い、これらに弓やスティック、手で摩擦を与えて出した70種類の音を、素材として使っている。実際に生まれた音は、パーカッションの音というよりも、サイン音のような透明感を放つデリケートで丸みのある音色になっている。

スコアを念頭に置いて聴き始めると、この曲がいかに意外な驚きに満ちているかがわかる。一つの音あるいは複数の音が直線的に音楽を貫いて微妙な和音を生み出す中で、そこに新たな音が加わると、その音の出現により、それまで存在していた音の響きが微妙に変化したように聴こえるのだ。まっすぐ直線を貫いていくはずの音が、わずかに波打つようなうねりを見せ始め、音が消えそうになったかと思うと、しばらくして再び浮き上がってきたり、音質が微妙に変わったように感じたりする。また、それまで存在していたある音が、演奏の持続時間を過ぎて立ち消えた時も同様で、その音の消失によって、他の音が微妙な変化やうねりを見せる。スコアの指示を読んだ限りは、複数の音がそれぞれ一本の直線を描くようにまっすぐ貫いていく様を想像するのだが、実際にスコアが演奏されるのを聴いてみると、あたかも思いがけない魔法が働いたかのように、各々の音が微妙に震えたり揺らいだりして、全体が静かなうねりのある豊かな表情をもった音楽として聴こえるのだ。一見、足し算と引き算だけで構成された曲なのに、それ以上のものが生まれているのは、なぜだろう。

その疑問の答えは、2枚目のCDを聴いてみた時にわかった。

■CD2:an unrhymed chord (65分)

  • コンセプト実現者/ジョセフ・キュデルカ
  • 音素材の提供者/35人の演奏者

このバージョンでは、ピサロとキュデルカの知り合いの演奏家たち35人(ピサロ自身も含む)から音素材をデジタル音ファイルで送ってもらい、それを集めて制作されたという。音素材の提供者には、電子的に発生された音であること、いかなる物理的な空間・時間にも左右されない音として、あらゆるリスニング環境において均等に再現されるように、デジタル化された音であることを条件とした。ピサロとキュデルカによる最終ミキシング段階を除いて、演奏家は他の演奏家が何をやったか一切知らない。キュデルカの作業は、音ファイルを各々の提供者の指示に従って、入れられるべきタイミングに挿入し、それぞれの音の音量を調整した。

ここでは、様々な音質の電子音が、スコアのイメージ通り、まっすぐ直線的に伸びていく。他の音が出現しても、その影響で音が変化することはなく、その音そのものの響きを終始一貫して維持している。音が入る時や消える時も、ぶちっと入って、ぶつっと消える…という唐突な感じである。つまり、CD1のバージョンを聴いて感じたような、スコアには存在しない音のうねりや揺らぎがここではほとんど感じられず、同じスコアの曲とは思えないほど、違う音楽として聴こえてくる。


なぜ、CD1のバージョンでは、スコアにはないはずの音楽のうねりや揺らぎが生まれたのだろうか。そして、CD2のバージョンでは、なぜそのうねりや揺らぎが生まれなかったのだろうか。その答えはおそらく、使用された音素材の違いにあるのではないか。CD1では、グレッグ・スチュアートによるパーカッションの音が使われており、CD2では、複数演奏家から集めたデジタル音データが使われている。パーカッション(あるいは楽器の音)と電子音の違いに、この音楽にかけられた魔法の秘密が隠されているように思う。

パーカッションなどの楽器からは、その音そのものの振動だけでなく、「倍音」として様々に増幅された振動が生じる。一方、サイン音などの電子音からは、この「倍音」が生まれない。CD1で、ある音に別の音が重なった時に、音に「うねり」や「揺らぎ」が生まれて変化したように感じたのは、この音同士の倍音が共鳴し合うことにより起きた現象なのではないか。ピサロは、同じスコアをパーカッションと電子音という2種類の音素材を使って演奏させ、両者を対比させることにより、演奏者の意図次第でこのスコアを様々な方法で演奏できることを示したと共に、倍音が音楽に与える「うねり」や「揺らぎ」の効果をもくっきりと浮き上がらせたのだろう。

音から生まれる倍音は、他の音の倍音と共鳴し合うことにより、音楽に神秘的な魔法のような効果(深みやうねりや揺らぎ)を与え、音楽を美しく響かせる。CD1のグレッグ・スチュアートによるバージョンは、柔らかく丸みを帯びた音の一つ一つが、あたかも小さな蛍たちが暗闇の中で各々の放つ光の強度を様々に変え、ゆっくり交差しながら飛んでいるような幻想的な情景を彷彿させる。(ソフトな音量を保ちつつ優雅に音を重ねていくスチュアートのデリケートな音の扱いは、聴き手の意識を異空間へと誘い込むような恍惚感を生む。)さらに、スコアにあるように、ほとんど聴き取れないほどの微音からメゾピアノまでの範囲で構成された音楽は、その弱い音量だからこそ生まれる聴き手と音との距離感(=両者の間にある空間の存在)が、音の「揺らぎ」を一層美しく響かせている。そして、音の持続時間と音量の反比例により、音同士の倍音の共鳴が最も美しく響く状態が計算されている。前半と後半の演奏の間にある5分間の沈黙では、音の余韻と「揺らぎ」の残像が聴き手の脳にしばらく残り、音楽がまだ続いているような感覚を与える。静寂との親和感を一定に保ちながら繊細に表情を変えていくその音楽は、理屈を超えて、忘れがたい美しさで聴き手を魅了する。

これほどに無駄のないシンプルでミニマルな形で、音そのものがその秘密を語るかのように、自然に音楽の美しさが引き出された曲を、今まで聴いたことがない。ピサロの音楽を聴いている時に感じる「揺らぎ」や「めまい」の感覚、非現実空間に運ばれるような感覚、半覚醒状態に誘われるような感覚の秘密は、ここにあるのかもしれない。


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