歌の話


毎年、東京に帰る度に、吉祥寺で週1回練習している女声合唱団に飛び入りで参加させてもらっている。中学時代には武蔵野市の合唱団に参加して、毎日のように歌っていた。大人になってからも、時々地元の女声合唱団でアルトの要員が足りない時には、知り合いに頼まれて参加することもあった。ある程度の年齢になってから合唱団で歌うというのは、何となく気恥ずかしい気もするが、合唱というのは子供にとっても大人にとっても等しく楽しいものなのだと今はつくづく思う。

私が帰国した時に歌わせてもらっている合唱団は、東京アカデミー女声合唱団という女声二部合唱団で、60代から80代後半位までの高齢の女性がメンバーのほとんど。私の母も団員で、松葉杖をつきながら毎週通っている。お年寄りが多い合唱団とはいえ、その歌声はとても澄んでいて美しい。若い時の痛々しさや中年期の苦々しさのようなものをすべて乗り越えた後の女性たちの声は、どこか俗世のものを超越したような透明感があり、淡々としているのに心を打つ。歌本来の心や詩の心を、過剰な感情移入なしに過不足なくそのまま理解し、そのまま歌う。とても簡単なようでいて、これはある程度の人生経験を積んだ人でなければ到達できない表現の領域ではないかと感じる。

最近の合唱のスタイルというのも、昔とはかなり変わってきているらしい。私が合唱をやっていた頃は、指揮者の指示に合わせて「全員が同じ一つの声に揃える」ことが絶対条件で、一人だけ声の質が違っていたり、歌い出しのタイミングがずれたりすることは絶対に許されなかった。今の合唱には、2種類のスタイル(美意識ともいえるかも)があって、1つは従来のように声を1つに揃えて、団員全員が1つの声になっているように歌うのが理想的とするスタイル。もう1つは、一人一人の声の質が違っても、あるいは歌い出しのタイミングが若干揃わなくても、一人一人が「自分の声」で、自分が一番表現したいような歌い方で歌うというスタイル。私が参加した女声合唱団もそのタイプだ。一見すると、それでは歌声がバラバラで聞き苦しいんじゃないかと思うが、実際にその歌を聴いてみると、「なるほど、これはいいかもしれない」と意外な印象を受ける。

団員全員の声が1つに揃った歌は確かに聴いていて美しいし、安定している。でも、それは「指揮者の心の声」を団員全員が代弁しているのであって、団員自身の声ではない。そしてそうした歌い方は、聴かずともどんな歌が聴こえてくるか、あらかじめ予想がつく。全国合唱コンクールで優勝しそうな合唱団の歌であり、その指揮者の指導下にある合唱団なら皆同じ歌い方になるだろうと予測がつく歌である。かつて私たちが目標にしていたのもそんな歌い方だった。

一方、一人一人が「自分の声」で歌う(といっても、もちろん地声ではないし音程も揃っていますよ)合唱は、初めはその不揃い感がやや気になるものの、やがてその「歌」と正面から向き合う団員一人一人が、自分なりの歌への思いを込めて歌う、その無垢な力の凄みに圧倒される。これは実際に聴いてみないと理解しにくい体験かもしれないけれど、著名な指揮者の清水敬一氏も、この東京アカデミー女声合唱団の公演を聴いてやはり心を打たれたと講評を述べていたそうなので、そういう合唱の価値観も今はあるのだろう。指揮者の声ではなく、一人一人が自分の声で歌う。それ以前に、もちろんある程度の技術は必要ではあるが、もしかしたら本当に力のある歌というのはそういうもので、それは合唱の分野だけでなく、他の音楽の分野にも当てはまるのかもしれない。

吉祥寺での練習に2度目に参加した時、木下牧子氏の抒情小曲集から数曲を歌った。その1つに、壺井繁治の詩に木下氏が曲を付けた「秋」という歌があり、シンプルな曲調で歌われたその歌詞が妙に忘れがたく心に残っている。その翌日、昨年5月に他界した詩人で音楽評論家の清水俊彦さんのお墓参りに行った時も、この詩の一節がずっと頭を離れなかった。


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秋はわたしの白い棺(ひつぎ)
ひそかに地中に埋めてみると
傍らで虫がちろちろと泣く

壺井繁治 詩「秋」より)