Antoine Beuger 'calme étendue (spinoza)' (EWR 0107)


ヴァンデルヴァイザー派の作曲家アントワン・ボイガーによるこの作品(1997年)は、演奏者がスピノザの「エチカ」の文章を8秒間に1語ずつ、 静かなトーンとゆっくりしたテンポで読み上げるというものだ。個々の単語は、表情や抑揚や意味を一切付加しないように、できるだけ単調な響きで読まれること、途中に入る沈黙の間では、朗読者はじっと座ったまま何もせず、静かに集中するという指示がある。2001年にリリースされたこのCDでは、ボイガー自身が「エチカ」の言葉を朗読している。このCDに収められたバージョンは70分15秒だが、作品の完全版を演奏する場合は、180時間を要するという。エディション・ヴァンデルヴァイザーのレーベルの作品群の中で、個人的に最も気に入っている1枚だ。

ボイガーの声で発音される言葉の後に続くサイレンスは、言葉の響きと同様に何らかの意味を含んでいるように感じられる。限りなく単調なトーンの(表情を最低限に抑えた)朗読だが、聴いているうちに、読み上げられる単語一つ一つにかすかに異なるトーンが含まれていることに気づかされる。朗読者による表情の付加を排したモノトーンの同じ調子で読まれることにより、各々の単語が本来持つ純粋な個性(色合い、明るさ、質感、暗さ、細さ、柔らかさ、固さ、太さ等)が浮き上がってくるのだ。そして、それらの言葉の響きが聴き手の心に落とす微妙な波紋のようなものが、余韻とともにその後に続くサイレンスの中に広がり、一つ一つのサイレンスに違うニュアンスが含まれているように感じられる。一人一人の人間が違う個性をもつように、一つ一つの単語は異なる世界を内包している。ここでは、無駄を一切排したミニマルな条件の下で、これらの単語に内在する一つ一つの世界が、言葉の後に続くサイレンスの中に投射され、拡大されて提示されている。

全体的に音はほんのまばらであるにもかかわらず、聴き終わってみると、一貫して続く音楽を聴いていたかのような濃密な充足感がある。音声として発せられる言葉と、その後に続くサイレンスの比重が同じように感じられ、交互に現れる音とサイレンスが、対等の「音」あるいは「聴かれるべき対象」として感じられるようになるのだ。と同時に、音楽を聴いているというよりも、深い思索の中に下りていったような、清々しく満ち足りた感覚に包まれる。微妙にトーンの異なる様々な言葉の響きが、サイレンスの中に微妙に異なる余韻(波紋)を落とし、聴き手の脳の中で音楽を形成する。それは、いわば見えるトーン(声)と見えないトーン(サイレンスの中に広がる波紋)で構成された革新的な音楽ともいえる。