ErstQuake2 を終えて


いつもアーストワイルのフェスティバルを連日聴き通してよかったと思うのは、その年の「目からウロコ」的なライブに出会えた時である。AMPLIFYやErstQuakeのシリーズが、同じ地元NYの〈ヴィジョン・フェスティバル〉やロンドンの〈フリーダム・オブ・ザ・シティ〉等の即興フェスと一味違うのは、「いよっ、待ってました!」という感じでお決まりのメンバーが出てきて、毎年代わり映えのしないイメージ通りの演奏を繰り広げたりしないところだと思う。アーストワイルの場合は、どのフェスティバルでも必ず既成のイメージを打ち破ってくれるような「目からウロコ」的な音楽体験が味わえると思う。

と言っても、それはけっして、アーストワイルのフェスに奇想天外なものを期待しているとか、サーカスの曲芸的な見せ物を期待しているわけではない。奇をてらったり「違うものや新しいもの」を常に目指そうとする時には、性急すぎたりバランスを失ったりするリスクも伴うことがあり、私が観たいのはそういう演奏ではない。ある演奏者がライブで演奏すると、それがその演奏者の一つの固定イメージとなって残る。同じ演奏者が再び別の場で演奏する時、その演奏者がどのような方向へ行こうとするか。前と同じエリアに留まって、そこで自己充足的なバランスを維持しようとするか。それとも、すでに「固定イメージ」となった以前の演奏から、さらに一歩別の方向へ踏み出そうとするか。2回、3回とライブを重ねるたびに、その演奏者はどのような前進を試みようとするか。それとも自分がいちばん居心地よいと感じたところにずっと留まっているだけか。即興のライブを聴く時には、私はそんな風に演奏者の演奏に耳を傾けている。アーストワイルのイベントが面白いと感じるのは、「さらに一歩別の方向へ踏み出そうとする」演奏に出会えるチャンスが高いからである。意外性の感じられない演奏や、別の方向へ踏み出す可能性の感じられない即興演奏は、いかに演奏者同士のコミュニケーションが親密で、互いの音を敏感に聴き合っているとしても、「すでにどこかで聴いたことのある音楽」「これより先へはもう進めない音楽」としての凡庸さが漂う。それが過去にいかに斬新で強烈なインパクトをもっていて音楽的に完成されていたとしても、「今」という時間の重みはそれ以上のものを要求する。

過去のAMPLIFYとErstQuakeのイベントの中で、そのとき最も驚きをもたらしてくれた演奏は、私にとっては下記のセットだった。どれも、いわゆるそれ以前の「アーストワイル的」に予想できる内容から逸脱していて、その意外性で「今」という時間を強く感じさせてくれた、「目からウロコ」的な演奏である。

1) AMPLIFY 2002@東京: 杉本拓カルテット、Cosmos
2) AMPLIFY 2003@NY: Keith Rowe/中村としまる
3) AMPLIFY 2004@ケルン: Peter Rehberg/Christian Fennesz/Sachiko M/大友良英  
4) AMPLIFY 2004@ベルリン: Christof Kurzmann/Burkhard Stangl "schnee live"
5) AMPLIFY 2005@プラハ:  特になし
6) ErstQuake2@NY 2005: Joe Colley (ソロ)、Julien Ottavi 
 
これは必ずしも、その演奏がフェスティバル中、音楽的に最高のレベルだったとか、あらゆる点でバランスがとれていたとか、そういう理由ではない。かといって、単に耳新しくて意外だったからとか斬新な展開だったからというだけでもない。それは喩えれば、滞っていた空気に風穴をあけてくれた演奏とでもいうか、未来へ続く明るい光を感じさせてくれた演奏とでもいうか、そういうセットだったのである。それはアーストワイルが今後進む可能性のある方向であるかもしれないし、単に次の何かへ進むきっかけであるのかもしれない。脱皮を繰り返しながら進化し姿を変えていく生き物というのが、アーストワイルの音楽についていつも思う(そしてそうあってほしいと願う)イメージなのである。そういう風にたえず進化していくミュージシャンが、私は好きだ。

先日の〈ErstQuake2〉でなぜ Joe Colley と Julien Ottavi が最も印象的だと感じたのか、その理由はまた次回に。