noise再考

yukoz2005-03-26

今回のNo Fun festivalを聴いて実感したのは、「ノイズ・バンド」と言っても、けっしてむやみに不快にうるさいわけでも騒がしいわけでもなく、むしろ耳に心地よい轟音とか脳を活性化して気持ちよくするようなサウンドも多く、ポジティブな響きと強烈なエネルギーをもつ音楽だと感じたのはちょっと目からウロコだった。騒音とか雑音という印象はあまりなく、“ノイズ”という言葉自体の意味を再考させられるきっかけになったと思う。

逆をいえば、たとえばNYの老舗のジャズクラブで聴く演奏がどれも耳に心地よいかと言えばけっしてそうではなく、むしろそのスタイルの凡庸さとか想像力の欠如とか自分の楽器が出す音に対する繊細さの欠如とか、そういうものが演奏そのものをとてつもなく退屈で耳に耐えないものにしていることの方が多い。そういう音楽は5分聴いただけでもう頭が痛くなってくるし、刻一刻と変化する時代の空気を敏感に察していないミュージシャンの演奏は、たとえそれが過去に偉大な演奏を残した人であろうと、10年前にはもっともラディカルで前衛的な音楽と呼ばれていたとしても、聴いていて居心地が悪くなる。NYダウンタウン系の音楽を聴いてももはや(自分にとって)何も新しいものを感じられないのもそのためである。ノイズ自体も進化しているのだ。ただその捉え方は人それぞれの成長段階と深く関係しているし、時代と音楽の同時代性というよりは、その人個人の歴史と音楽とがどう共鳴するかが大切なので、「この音楽はもう古い」という表現はけっして公平なものではないと思う。正確に言うなら「この音楽は(この人にとっては)もう古い」というべきだろう。今現在ジョン・ゾーンの音楽を聴いてそのサウンドの中に自分の成長過程にとって大事なものを感じ取っている人もいるはずだし、そこをすでに通過してしまった人もいるだろうし、そういう人はもっと「今の」自分に共鳴できる音を求めているかもしれないし。

今の時代の複雑な精神性とたえず直面しながら日々を生きている人々にとっては、ノイズが生み出す微細な音や轟音の渦の中にしか共鳴できるサウンドを見いだせないとしても不思議ではない。譜面にするにはあまりにも細分化された微細な音であったり、常識の枠を超えた巨大な音の渦であったりするがゆえに、それらは「ノイズ」と呼ばれているだけで、それはけっして無意味な騒音だと言い切れるわけではない。

33ドル払って3日間ノイズの祭典を聴きにいく(それにしても安いなNYは)という理由は、そこで繰り広げられる「音」の中に今の自分の心を惹きつける何かがあると感じているからであって、まあ恐いもの見たさもあるのだけれど、それはそれで意味のある行為だったと思う。