Antoine Beuger 'keine fernen mehr' (EWR 1006/07)


2010年にエディション・ヴァンデルヴァイザーからリリースされた「keine fernen mehr」は、アントワン・ボイガー自身が吹く口笛の音で演奏された曲を収録した2枚組のアルバムだ。全体的に非常に静かなかすれた質感の口笛の音の前後に、ボイガーが息を吸い込む静かな音と、室内のノイズがホワイトノイズのように聴こえる。特定の音程をクリアに伝える口笛というよりも、口から出る息が音になるかならないかの狭間で発せられる音は、複数の音のニュアンスを同時に含み、人間が吹く口笛というよりも、自然界の風の音に耳を澄ませているような感覚を聴き手に与える。 その口笛の複雑な音の層と、風のような自然な質感、背景でホワイトノイズのように聴こえる静かな室内音(それは沈黙の感触を含んでいる)に耳を澄ませているうちに、聴き手の聴覚は鋭敏になり、普通なら聞き逃してしまいそうな微妙な音の変化をも、耳がとらえるようになってくる。

口笛が明確な音程と響きをもつ場合、聴き手はそこに奏でられる音や音楽に聴覚を引きつけられるが、ボイガーの口笛は、音と沈黙の中間にあるグレーゾーンを吹き抜けるような半透明な印象を与え、その半透明さゆえに、背景の静けさと室内音のホワイトノイズと重なり、演奏音と室内音の両方にまたがる領域を聴き手に体験させる。と同時に、口笛という五感に直接訴えかける音は、あたかもそれが聴き手の心の中で鳴っているかのような個人的な印象を与え、聴き手は「耳を澄ませる」という行為を、深い思索の中に下りていくための通路として体験し、ボイガーの口笛の音が途絶えた後のホワイトノイズの中で、自分の心の奥深くで鳴っている音を聴く。この作品は、いわば聴き手の心の中の音(思索)と口笛(演奏音)と室内音(沈黙と環境音)が重なり合って生まれる音楽であり、聴き手一人一人にとって異なる聴こえ方をする音楽となる可能性を含んでいる。