音が音に戻る時〜音にまつわる記憶からの分離と自由


環境音がある時期から音楽として聴こえるようになったのはなぜだろう、とふと思う。たとえば、飛行機の音を聞いた時に、その音にまつわるイメージ(雲間を飛ぶ飛行機の映像など)が自動的に連想されてしまうと、飛行機の音は飛行機の音以外の何物にも聞こえない。ただし、飛行機の音が、通常記憶の中に呼び起こす飛行機のイメージから分離された状態で聴こえたとしたら、その音は飛行機という限定されたイメージから解放された「音そのものの響き」という、全く違う新鮮な音として聴こえてくる。

記憶は、音(あるいは音楽)に絡みつく様々な付加物のようなものだと思う。たとえば風の吹く音は記憶の中の風のイメージを呼び起こすし、川の水音は川のイメージを呼び起こす。通常、音とその音から喚起されるイメージとの関係は、そのように1対1の結びつきで成り立っていることが多い。また、ある音楽は、その音を演奏する特定の演奏者を思い出させたり、その音楽を好んで聴いていた時期の自分の人生における特定の記憶や感情を思い出させることもある。これらの記憶の連鎖も、音や音楽に絡み付く付加物だといえる。そうやって、自分の記憶の中に眠る様々な感情や感傷と結びつけながら音楽を聴く人もいるだろうし、特定の演奏家の個性を音の中に感じ取ることを楽しみに音楽を聴く人もいるだろう。

たとえば、コルトレーンの音楽を聴いている時に、そのサックスの音のピュアな響きやアドリブの創造性といった音楽的な素晴らしさを鑑賞するだけでなく、コルトレーンならではの音から伝わる誠実さや真剣さといった類い稀な個性に感動する人もいるかもしれない。また、コルトレーンという演奏家の生涯やその時代背景(伝記などで知り及んだ当時のニューヨークのイメージやコルトレーンの心理状態など)を無意識のうちに音と連結させて想像しつつ聴くことで、その演奏を生んだ当時のコルトレーンの内なる声や叫びに共鳴して心を深く動かされる人もいるだろう。あるいは、その演奏が彷彿させる「ジャズらしさ」や時代の空気を単純に愛する人もいるかもしれない。いずれにしても、その演奏を、コルトレーンという演奏家の個性や存在と切り離して鑑賞することは難しいのではないかと思う。

15年ほど前までは、私自身も多かれ少なかれ、そういう音楽の聴き方をしていたように思う。その頃は、演奏家の魂の奥から聴こえてくる「声」が訴えるものや希求するものや、その演奏が呼び起こす時代の空気を、演奏される音や音楽の中に感じ取ることを面白いと感じていたように思う。ある種の古いポップソングやジャズを聴いて、その音楽が呼び起こす過去の懐かしい記憶に浸ることもあったかもしれない。当時は、そうした音に絡み付く付加物(演奏家の個性や時代の空気や自分自身の記憶)というものは、音楽と切っても切り離せないものであり、音楽を輝かせるものとして、当然のものとして受け入れていたと思う。

そうした聴き方に何となく居心地の悪さを感じるようになったのは、日本からアメリカに移住して3年目が過ぎた頃だった。日本の生活への愛着が感傷を伴って時折心を刺すことがある(ホームシックに襲われることがある)最初の3年が過ぎた頃、自分の中である変化が起き始めていることに気づいた。ある時期を超えてから、かつて日本で体験した様々な出来事を思い出しても、そこに感情の揺れや感傷といったものを、以前のようには感じなくなってきたのだ。過去の出来事はあくまでも過去の出来事にすぎず、日本は日本であり、自分は自分であるという、一種の悟りのような境地に達した時、「自分」と「日本」と「出来事」という過去の一時期の記憶を共に形成していた要素はもはや密着した形ではなく、分離され独立した存在として感じられるようになった。そして、過去の出来事や日本の生活を思い出しても、自分自身の感情を強く刺激されることがなくなった。日本的な人情とか情緒といった観点から見たら、何とも薄情で心ない人間になったものだと思われるかもしれない。この変化が起き始めた頃は、自分でも心というものを失いつつあるのではないかと不安になったこともあった。でも、この分離体験(それはある意味で、日本という故郷を離れたことから生じる痛みから心を守るための自己防衛手段だったかもしれない)は、同時に自分を何か大きなしがらみから解放してくれる、本来の意味での「自由の獲得」だったように思う。

過去の記憶が呼び起こす感情のしがらみから解放されるというのは何と素晴らしいことだろう。通りがかるたびに子供の頃の不幸な体験を思い出していた故郷の並木道は、その並木道本来の美しさを取り戻して純粋な喜びとして目に映り、風景は風景としての本来の姿を取り戻す。春の陽気は春の陽気として感じられ、風は風として感じられる。それらがかつて自分の中に呼び起こしていた様々な感情や感傷の揺れは、いつの間にか削ぎ落とされて消えている。心が動かないわけではない。音楽が音楽そのものの響きで心を打つように、風は風本来の感触で心を動かす。過去の記憶というしがらみが、そこには介在しないだけだ。

周囲の事象から記憶のしがらみが分離されたことにより、音楽の聴こえ方も変わった。たとえば、学生の頃に好んでよく聴いていたいくつかのポップ音楽は、色あせるようにその輝きを失った。かつてその音楽に投影していた自分の感情や感傷といった付加物がきれいに削ぎ落とされた時、そこに残ったのは、ただうるさいだけのハイテク音の集合体に過ぎなかったと気づくこともあった。その一方で、子供の頃からよくテレビや街角で流れていたある歌を再び耳にした時には、その歌を構成する一つ一つの音や和音の変化の純粋な美しさを再発見して感動することもあった。かつてその歌を聴くたびに感じていた時代の空気や「耳慣れた歌」というマンネリズムから、耳が解放されたからだろう。記憶のしがらみからリセットされた「かつて知っていた音楽」は、生まれて初めて聴く音楽のように響く。それは素晴らしい体験だった。その時の体験を、偶然3年前のブログに記してあったので、ここに転載してみる。

そのことを体験したのは、先月24日、新宿ピットインの大友良英のライブで、カヒミ・カリィが最後に歌った「見上げてごらん夜の星を」を聴いていた時だった。その時、私は、旧知の歌を自分の心が様々な連想を伴いながら追っていくという聴き方(遠い過去に音楽を愛聴していた時のように)ではなく、その空間に今こつ然と現れた歌が、ぽつりぽつりと心に「降りてくる」という感覚を味わっていた。遠い昔に愛聴していた音楽との間の、あの居心地の悪い「距離」を感じることもなく、自分の上に静かに舞い降りる雪を見ているかのように、自然に音楽を受け止めながら聴いていた。時折、歌のすき間にすーっと滑り込んでは消えていく、Sachiko Mのサイン波の安らぎにも助けられたのかもしれない。日本でもない、世界中の他のどの国でもない、特定の風土とは切り離された、どこか遠い宇宙を思わせる空間で、その歌は響いていた。古い聴き慣れた歌が一度ばらばらに分解され、その歌にかつて伴っていた様々な色づけが消滅し、音の一つ一つが汚れのない純粋な「音」として再び立ち上がった時、そこから再構築された歌は、過去の記憶と結びついていた歌とは違う歌として生まれ変わる。脱構築から再構築へというプロセスを経て、音楽が再び汚れのないピュアな存在として立ち現れること、そうして再生された歌が再び人の心に触れることが可能だと知ったのは、嬉しい驚きだった。(2008年1月7日のエントリーより抜粋。)


こうした事象と自分との分離は、やがて日本での記憶とは全く関係のない日常でも体験するようになった。音楽を聴いていて、その音楽に絡みつく演奏家の個性というものに、いつしか居心地の悪さを感じるようになったのも、その分離体験の延長だったのだと思う。分離によって獲得する自由の素晴らしさを、無意識に求めるようになっていたのかもしれない。音楽や音に絡みつくあらゆる要素(自分の記憶や演奏家の自我など)に対して、少しずつ拒絶反応を覚え始め、聴きたい音楽が変化していった。そうした変化の末に出会ったヴァンデルヴァイザー派の音楽は、それまで自分が経験してきた分離体験が、「自由」を獲得するための貴重な過程であったことを証明するきっかけとなった。

過去にまつわる感情や感傷、演奏家の強い自我や主張、環境音が呼び起こす特定のイメージなど、音に付着した様々なしがらみから解放された時、音は音本来の響きを取り戻すのだろう。そして、身の回りの環境音を聞いている時にも、その音が呼び起こす具体的なイメージ(音の発生源の特定の印象)から分離された音そのものの響きが重なり合い、あたかも全く新しい複雑な音楽を構成しているかのように聴こえる時、人間が体験できる音楽には無限の可能性があるのだと知り、新鮮な感動を覚える。そんな風に自由な体験を可能にしてくれる音楽を、今は聴きたいと思う。