Michael Pisaro / Barry Chabala - Unter Eichen (Roeba 001) 和文

Unter Eichen」(Roeba 001)は、マイケル・ピサロの2003年の同名の作曲を、バリー・チャバラ(ギター)が2009年に演奏・録音したCD作品だ。曲の主題には、オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの詩「Untergang (Sinking)」が使われている。 曲の構成は、詩の内容に沿って、長い沈黙の間をはさんだ6つのセクションに分かれている。セクションごどのギターの音程や和音は、すべてスコアに記されているが、音を出すタイミング、音と音の間の沈黙の取り方、音の微妙な強弱などは、ほぼ演奏者に任されている。その他スコアには、「アンプの使用レベルはごく弱く」「ディストーションは全く使わないか、使うとしたらごく小さく」という演奏者への指示もある。また、スコアにある「音より沈黙の方が長い曲であること」「出した音は自然に消滅するまでそのままにしておいてよい」という2つの指示は、この曲を演奏する上で特に重要なポイントのようだ。

Unter Eichen

  • エレクトリックギターのための曲


「沈んでいく」

野鳥はすでに飛び去った
白い池の上
夕刻 氷のように冷たい風が遠い星から吹く


夜の打ち砕かれた額が
墓の上に覆いかぶさる
樫の木の下 僕らは銀の小舟に乗って漂う


街の白い壁が僕をずっと呼び続けている
頭を垂れたとげのある枝葉の下
僕らは盲目のまま 手探りで真夜中に向かって昇っていく


(ゲオルク・トラークル)※筆者訳


冒頭の1分ほどの長い間の後、ギターの高音の和音が一つ、ゆっくりしたテンポのダウン・ストロークで鳴り渡る。潤いと共にやや緊張感をはらんだ細く固い質感のギターの音が、トラークルの詩の白い池の冷たい水の揺らぎと、飛び立つ鳥の鋭い羽音を連想させる。長い間をはさんでギターの和音が鳴るたびに、空気のひやりとした感触が増し、「鳥が飛び去った後の静寂」がより深まっていく。さらに長い沈黙の後、ギターの高音の和音の直後に、低い音程の太い弦の音が鳴り、長い余韻を響かせる。低く太い弦の音は、「樫の木」の枝葉の下に広がる池の黒い水面と、次第に濃さを増していく夜の闇と静寂を思わせる。ギターの音が静寂の中に消えるたびに、より深い暗闇の中に沈んでいくイメージが広がり、沈黙の存在感が強くなるにつれ、現実感が次第に薄れていく。冒頭から9分40秒ほど経った頃に、3分以上の長い沈黙の間が入る。時間が静止したような、密度の濃い静寂だ。

長い間の後、高音のギターの柔らかく澄んだ音が一つ鳴り響く。ソフトなトーンだが、ぴんと張りつめた緊張感と鋭さも含み、極度に研ぎ澄まされた神経を感じさせる。ギターの弦を弾いた高音と中音と低音が、沈黙の間をはさんで一音ずつ、時には大きな音で、時には小さな音で鳴る。ギターの弦を強く弾いて鳴る強い中音は、トラークルの詩の「凍てつく風」を、低音は「暗さを増していく夕刻」を、弦に軽く振れて鳴る透明なトーンの高音は、「遠い夜空でかすかに光る小さな星」を思わせる。シンプルなギターの音の高低と強弱だけで、しんとしたまばらな音風景の中に、リアルな遠近感と時間の経過の感覚が見事に表現され、トラークルの詩の心象風景が目の前に広がるような効果を出している。

再び長い沈黙の後、トレモロのエフェクトのかかったギターの低音の和音が、上下にたわんで大きく揺れながら、長く太い余韻を残し、暗く不穏な空気をもたらす。暗いニュアンスのギターの和音は、トラークルの詩の「夜の打ち砕かれた額が墓の上に覆いかぶさる」という一節に共鳴し、詩人の深く痛めつけられた精神、打ちひしがれた心、苦痛に歪んだ表情を連想させる。不穏なギターの揺れる音が静寂の中に垂直に落とされるたびに、静寂が一瞬の衝撃を受けたかのように揺らぎ、静寂がさらに深くなっていく。(このギター音と静寂の繰り返しには、聴き手を眠りに引き込むような催眠効果があるような気がする。)ギターの音が長い余韻を残して消えていくたびに、静寂の中に、救いのない絶望を抱えた心の闇が重なっていく。

再び長い沈黙の後、ギターの弦を軽く弾く「ポーン」という静かな高音が響き渡る。冷たさと柔らかさが同居したようなギターの弦の音が、静寂をはさんで4つの違う音程を一つずつ、時には小さく、時には大きく響かせる。静けさの中にやや緊張感をはらんだその音は、トラークルの詩の「樫の木の下の池を漂う銀の小舟」が放つおぼろげな銀の光を思わせる。その後に広がる長い沈黙の間には、より深い暗闇と沈黙の中へと、何かがゆっくりと沈んでいくような感覚がある。

再び長い沈黙の後、ギターの弦を固く弾く2つの音程の和音が、ぴんと張りつめた響きで鳴る。マイナーコードとメジャーコードの4種類の和音のみを一つずつ弾いているだけなのに、それぞれの音量と弦の触れ方が違うだけで、いくつもの異なる様々な表情(希望、調和、不安、嘆き、諦め、疲労、焦り、脱力、疑問など)が和音ごとに微妙なニュアンスで生まれている。この一つ一つの和音は、トラークルの詩の「街の白い壁が僕をずっと呼び続けている」という一節から読み取れるように、「白い世界」すなわち「死の世界」から詩人を呼び続ける無数の魂の声(それは戦場でトラークルの目前で死んでいった兵士たちの魂かもしれない)を彷彿させる。それらの響きは、死の世界に対するトラーキルの憧れを示すかのように、恐怖というよりも、心を惹かれる優しげな響きとして提示されている。

再び長い沈黙の後、ギターの高音の細い響きが、時には単音で、時には和音となり、水が揺れるように透明な音色を上下に揺らしながら、余韻を残して消えていく。張りつめた神経を思わせると共に、はかなげに揺らぐギターの音は、トラークルの詩の「頭上を覆うとげのある枝葉」という現世の苦しみを通り抜けて「手探りで真夜中に向かって昇って」いこうとする、消え入りそうな危うい脆さをもつ小さな魂を思わせる。そこには苦しみや悲しみや恐怖や怒りといった重くネガティブな感情はなく、むしろ死の世界に究極の安らぎと魂の平和を求めていた詩人の強い憧れが、その静かで透明なトーンに反映されているかのようだ。


夕刻の闇や白い池の水、氷のように冷たい風、遠い星の光、墓、銀の小舟、白い壁、真夜中といった、トラークルの詩の世界に現れる「死」を連想させる冷たさのイメージと、無数の魂の呼び声や真夜中に向かって昇っていこうとする小さな魂のもつ「生命」の柔らかさのイメージとの対照(静止した世界の中で動こうとするもの)が、この詩に忘れがたい美しさを生んでいる。トラークルの詩は、隅々まで「死」のイメージに満ちているにも関わらず、憂鬱とか深い苦痛などといったネガティブな感情は不思議と伝わってこない。むしろ、その詩には、心を落ち着かせる音楽のような言葉の流れとリズムがあり、それらが穏やかな静けさと澄んだ透明感を生んでいる。ここでは、トラークルの詩独特の、読み手の心に深く残る余韻が、ギターの音の余韻と重なって響く。マイケル・ピサロの作曲とバリー・チャバラのギター演奏は、まばらに挿入されたギターの音色と沈黙の間というごくシンプルな構成によって、この詩が醸し出す非現実的な美しさをたたえた豊かなイメージのみならず、現実の世界と死の世界の中間にあるともいえそうな「トラークルの心象風景」に広がる濃い静寂と透明な暗闇の質感を見事に表現してみせた。最低限の音と静寂との組み合わせだけで、これほど深く繊細に詩の世界を再現してみせたピサロの作曲とチャバラの演奏は圧巻だ。


同じくギターのまばらな音と長い沈黙の間で構成されたマイケル・ピサロの作品「black, white, red, green, blue」(これもバリー・チャバラの演奏)の場合は、静寂は常に音との親和感を保ちつつ、水平的に広がっていくイメージがある。それとは対照的に、「Unter Eichen」の場合は、音と静寂が緊張感を保ちつつ出会い、音が静寂の中に垂直に落とされるたびに、静寂が地震のように一瞬揺れるような印象を与えている。前者の静寂が「平和、穏やかさ、温もり」といった印象を与えているのに対し、後者の静寂は「緊張感、不穏さ、冷たさ」といった印象を与えている。まばらなギターの音と長い沈黙のまで構成されているという似たような条件であるにも関わらず、これら2作品のもつ静寂の質感と印象は、極端なほどに違う。マイケル・ピサロは、沈黙(サイレンス)の質感や性格を左右するのは、そこに隣り合わせる「音」の存在と種類なのだという事実を、これらの作品の中で明確に示している。


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