哀れみていたわる心


「哀れみていたわる」という仏教の言葉が、このところよく心に浮かぶ。これも日本人ならではの心情だろうか。

アメリカ(というかニューヨーク)では感傷に浸るにはあまりにも唐突で残酷な現実が目の前にあって、人々は現実を生きるのに精一杯という気がする。弱者のことをいちいち哀れみていたわっている余裕などないという感じを、ニューヨークの人たちを見ていると受ける。高額の健康保険料のことや毎年値上がりする家賃のことや、いつ解雇されるかわからない状況などを考えていると、他人を哀れみていたわる前に、まず自分の身辺のことを考えなければならないという切迫感があるからかもしれない。競争に明け暮れるアメリカ社会に、哀れみの心というのはあるのだろうか。まあ、ないのでしょうけど。せめて亡くなった人に対しては、「哀れみていたわる」心を持ってほしい。

 * * * * * *

「死んだ人をいたわる心」というのは日本人ならではの心だということが、作曲家で音楽評論家の助川敏弥氏の日記サイトにも書いてあった。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/sukegawa/Journal.htm


助川敏弥氏という人のことは、あまり詳しくは知らないのだけど、前衛的な音楽畑の人ではなく、保守的なクラシック音楽の作曲家・評論家として活躍されている人のようだ。月刊誌『音楽の世界』の元編集長でもあったらしい。前衛ものも西洋のクラシック音楽もどちらも好きな私にとっては、この人が日記中にも書いている「前衛がもたらした破壊への懸念」というのも、わからなくもない。どちら側の音楽にもそれぞれ違う価値と美学があり、そのいずれかを完全に否定することは難しいと私は思う。助川氏は前衛派の音楽には懐疑的なようだが、「電子音には非現実の世界への誘惑がある」と述べていて、電子音自体は好きなようだ。

この人は季節や天気の変化に非常に敏感に反応する人のようで、日記の冒頭には、「このところ、ようやく秋晴が続く。町田の家並をやわらかな晩秋の陽が包む」とか、「身を切るような寒風吹く」とか、「冬の雨はみじめでかなわぬ」とか、「昨日は夕方から寒く、出かけると顔に冷たいものが、雪だった」とか、「暖かいが風強し。春風」など、たいていその日の天気に関する一言メモがある。これが何とも言えず風情があっていい。この人が見ているその季節の風景が、ぱっと目の前に現れ、その空気の匂いがじかに感じられるような気がするのだ。夏場は暑さに辟易としているのか、天気についての記述がほとんどなく、いきなり本題に入るところも何だか面白い。

こうした何気ない一文を見ても、季節や天候の些細な変化や光に敏感に反応して心が明暗するという、「ああ日本人にはそんな繊細な感受性があったのだな」と感慨深くなる。この人がクラシック音楽を聴いている時に、ふとした曲調の変化に心を震わせる瞬間までもが重なって連想されてくる。作曲をしている時の日記の冒頭には、「新作が難しい。私はなぜこんな世界に踏み込んだのだろう」と書いてあったりする。こういう気持ちをふと漏らしてしまうような人が、私はとても好きだ。

音楽話の他にも、美学や哲学の話、サマセット・モームの小説の話、ウィーンやスロバキアやベルリンを訪れた話、NHKの5階のスタジオの廊下の話など、懐かしくなる話がいろいろ出てきて、この人の日記を読み始めると夜が更けてしまいそうだ。文体がやや硬い印象も受けるが、それでも読み込んでみるといろいろ共感するものがあって面白い。前衛派とか保守派とか、世代やジャンルの違いがあっても、等しく思いを同じにする部分というのはあるのだなと、嬉しい発見がある。

この助川氏の日記の中の「『原智恵子 伝説のピアニスト』を読んで」という6回連続で追記も含めた読後感想も、いろいろな点で考えさせられる興味深い内容だった。本を深く読み込んだ上で、著者の個人的な思い入れに左右されずに、冷静に事実を見極めようとする目が素晴らしい。こういう音楽界の派閥や政治的なものなどの諸々の付加的なものとは一線を画した、自由で公正な立場に立って評論のできる人の存在を知るのは、それがどんなジャンルであっても、とても嬉しい。


  * * * * * *

ニューヨークの日本語ペーパーに書く仕事を始めた頃は、周りのライターたちがブログやホームページに対して懐疑的だと知って驚いた。「報酬をもらえないような場に文章など書きたくない」というのがその理由だという。ずいぶん前に何かの集まりでそういう意見を聞いて以来、ブログをやってるのがバレたら白い目で見られそうだなと思い、怖くて「実はブログを書いてるんですよ」とは言い出せなかった。狭い日本人社会だし、見つかったら陰で何を言われるかわからないなとも思い、しばらく書くのを控えていたりもした。案外小心者なので。まあ、その仕事が忙しかった時は、書くのに疲れ果ててブログを書こうという気にもなれなかったのだけど。でも、コアな音楽話など書けようもない一般読者向けの記事だけを書いていると、前衛を愛する心がやがて萎えて慢性的なうつ状態になることが最近わかってきたので、もう気にするのはやめて好きなように書くことにした。上にも書いた助川氏のように、新聞や雑誌に書く機会がありながらも、自身のサイトで日記を書き続けている人の内容の濃い文章に出会うと、しみじみそう思う。



  * * * * * *

日本語という言語の一つ一つの単語の奥で、小さなロウソクの炎のように揺れる、秘められた微妙なニュアンスに心が触れることができる間に、その感性が外国生活の中で次第に褪せて消滅してしまう前に、とにかく日本語の文章を書き続けていこうと思う。広い海原で溺れそうになりながらも、力の限りあがき続けていれば、いつかどこかの島にたどり着けるかもしれないという可能性を信じて。