即興音楽と詩について


故清水俊彦氏の著書『ジャズ転生』の中の「即興の哲学に向けて」という章に、こんな言葉がある。

「そして次に、即興は詩的理解を養い育てるものだと言っておきたい。つまり、即興が〈わかる〉ようになれば、その瞬間に心で触れることができるようになれば、一見〈無謀で、気違いじみた〉行為がにわかに〈意味をもつ〉ようになるのだ。そのとき人は抽象作用の理解を具体的に経験するわけである。」(129頁より)

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即興音楽とは、その瞬間にその場所で生まれた唯一無二のものでありながらも、あらゆる時間と場所に繋がる可能性を秘めたものでもあると思う。言い換えれば、様々な偶然と必然の要素が重なって自然発生的に生まれた音楽であると同時に、時間や空間という制約を超えた普遍的な価値をも持ちうるのが、即興演奏の可能性なのではないかと思う。

演奏者の音の中に生まれた「詩」、その演奏に触発された観客一人一人の内部で生まれる「詩」。それらは、言葉という形をとる前に存在するイメージであり、そのイメージは様々に違うかもしれない。ある即興演奏を聴いた観客10人が詩を書いたとしたら、10編の異なる詩が生まれるかもしれない。それでも、その場にいた全員が等しく体験しているのは、「詩が生まれる瞬間」という共通の時間だ。

即興演奏を聴いている時、私たちは現実とは切り離された、別の空間と時間が存在する場所を体験している。その「どこにでも繋がる可能性を秘めた場所」を訪れるために、私たちは即興演奏を聴くのかもしれない。現実をめぐるあらゆる「詩的ではないもの」との繋がりを断ち、詩が自分の中に呼び起こされる瞬間を求めて。