独立記念日の花火

yukoz2007-07-05


アメリカ独立記念日なので、マンハッタンの対岸のリバティー・パークで花火を見てきました。昨年から、マンハッタンの花火の場所がイーストリバー側に移ってしまったので、NJ側からだと高層ビル越しにわずかに見えるだけだったのが残念。でも、ほぼ同時に始まったジャージーシティー主催の花火の方は、目の前なので迫力ありました。毎年、この日はジャージーシティー周辺から、家族ずれや若い人たちが続々と集まり、広いリバティー・パークの芝生のあちこちで、昼間からバーベキューをやっていたりするので楽しいです。なんだかんだ言っても、やはりアメリカは人も空気も大らかでのびのびしていて好きです。昼間は裏庭でグリルをして、モロッコ風チキン・ケバブとトウモロコシとポテトの串刺しを焼いて食べました。最近、炭火で焼く新鮮な食材の美味さを発見し、すっかり野外グリル料理にハマっています。

アメリカにいて感じる居心地の良さとは、一体どこから来るのだろうと考えると、それはおそらく1人1人の人間は違って当たり前、という他民族社会のおかげではないかと思う。特に世界中から様々な人種が集まるニューヨークでは、他人は自分と違って当たり前、という考え方が基本にあるので、人と違う生き方をすることに何の抵抗も感じずにいられるのが素晴らしい。

日本の場合は、職場でも私生活でも、人と人が共感し合うとか、同じ目的や価値観を持つことがかなり重要視されていたのだなと、アメリカに来て痛感した。いわゆる通常の大多数の人々の価値観や生き方とは「違う」ということが、良くも悪くも、ものすごく大きな問題のようにとらえられやすい。よく、「隣の○○さんはこんなことしてるのよ」とか、「○○さんご夫婦は週末にこんなところに出かけるらしいわよ」などと、自分たちとは違う生活をしている他人のうわさ話というのが、なぜか人の興味を引くのも、いかにも日本らしい。流行とかブームとか、流行りものが常に存在しないと人々が不安になるのも、そういう団結精神が背景にあるからだろうなと思う。他人との違いが日常的に憎悪やいじめを招きやすいのも、「違い」に対する居心地の悪さや不安があるからだろう。

逆に、「オレは他人とはこんなに違うんだ」と、その変わり者的な部分をアピールし、それが周囲に引き起こす影響とか摩擦を楽しんでいる人も、日本でよく見かける。「他人との違い」を売り物にするという自己表現の仕方も、いかにも日本らしくて面白い。アメリカでは、そういう人と人との「違い」に対して、日常的に神経質になっている人はまれだと思う。たとえば、大家さんはアメリカ人、隣人はインド人と中国人、ビルの修理人はポーランド人、角の酒屋のおかみさんはマレーシア人というように、日常的にいつも人種の違う人と接している人にとっては、人同士の「違い」にいちいちこだわっていたら物事が何も進まない。むしろ、他人と自分との違いに面白みを見いだして、その違いを興味深く受け入れていると思う。それが自分に迷惑を及ぼす行為であっても、ぶつぶつ文句を言いながらも「まあしょうがないな」と大雑把に受け入れるしかないということに気づく。違う人間なのだから、批判したってしょうがない。「あいつの考えは理解できない」とか「あいつはまともじゃない」というような、日本でよく耳にする他人に対する批判の常套句を、アメリカで日常に耳にすることはあまりない。たまに価値観の違いで衝突が起きても、そこから何かを学び、最終的には人類みな兄弟という地球規模の寛容な心がなければここでは暮らしていけない、という境地に達することができる。

違いが当たり前、という文化は素晴らしい。似た者同士で当たり前、という文化は恐ろしい。アメリカにいると、違う人間同士という前提で交流してきた人の中に、何か思いがけない共通点が見つかった時の驚きと喜びは大きい。「違い」にネガティブに反応して拒絶するより、「共通点」にポジティブに反応して感動できる方が、生きていて楽しい。日本にいるよりアメリカにいる方がリラックスできる理由を考えると、少なくとも自分の場合は、それが一番大きい理由だと思う。