日本にいるのもあと2週間ちょっとかと思って、今のうちに日本でしかできないことをやっておこうと思うのだけど、焼き魚を思う存分食べておこうということ以外はなかなか思いつかない。庶民だなあ。4ヶ月間も日本にいたのはとても久しぶりだったせいか、3ヶ月過ぎた頃から妙にそわそわしてきて、アメリカで「外国人」をやっていたときの気楽さが懐かしくなってしまった。自分の国にいるほうが落ち着かないというのもおかしなものである。

先日、マイケル・ムーア監督の「Bowling For Columbine」をテレビで見ていて、内容うんぬんよりも、巨大スーパーマーケットとか黄色いタクシーが行き交うストリートとか、インタビューに答える人々のいかにもアメリカ人らしい大げさな仕草とか、そういうアメリカの日常の風景に無性にホームシックを覚えてしまった。たとえブッシュが再選されたとしても、それでもやっぱりアメリカにいたいと思う。そういう理屈抜きでアメリカにアットホームなものを感じてしまう自分である。

日本での会話の基本ルールというのは、「そうそう、そうだよねー」と相手に相づちをうつことであり、「そうかなー、私はそう思わないけど」などと言ってしまう人間は、もう自閉症になるか社会の疎外者になるしかない。でも、「えー、それって違うんじゃないの?」と堂々と反対意見を公の場で発言してもけっしてひんしゅくを買わない(むしろそのほうが高く評価されたりする)アメリカという国は、やはりすごいと思う。中学の頃から「えー、それって違うんじゃないのー?」と大きな声で言い続けてあらゆる所属団体のひんしゅくを買いながらも今日まで日本で生きてこられた自分は、奇跡かもしれない。一緒に異議を唱えていた子の何人かは、自らこの世を去ってしまった。日本というのは生きるのが難しい場所だとつくづく思った。

大きなスーツケースを成田までがらがらと運んでいき、成田空港のゲートで飛行機の搭乗時間を待っている時の、あの一人になれる時間を待ち焦がれている。「外国人」になることで得られる自由とはいったい何なのだろうと思う。どこにも属さないアウトサイダーになることで安堵を覚えてしまうのは、これはもう生来の性格なのかもしれない。