Michael Pisaroの音楽


外で大雪がしんしんと降り積もる一日。マイケル・ピサロの作曲をバリー・チャバラがギターで演奏したカセットテープの作品『black, white, red, green, blue』と、Edition Wandelweiserからリリースされているマイケル・ピサロの作品『hearing metal 1』と『an unrhymed chord』を聴いていたら、完全に別世界へトリップしてしまった。

マイケル・ピサロの作曲は、気づくか気づかないほどの微妙な音の揺らぎ、音と静寂がゆっくり交差する感覚、時間の流れを曖昧にさせるゆったりした独特のテンポ、それらが相まって、どこか別の全く違う時間が流れる異空間に紛れ込んだような錯覚を生む。自分の周囲の高度や気圧が、あたかも少しずつ変化しているような「揺らぎ」の感覚が、心地よいめまいを起こす。この独特の、時間が引き延ばされたような感覚と、潜在意識に潜り込んできそうな微妙な音の変化が、ピサロの作品の特徴だ。

この「時間が引き延ばされたようなめまい感」というのは、ジョン・ティルバリーのピアノ演奏を聴いている時に襲われる感覚にも少し似ている。ただ、ティルバリーの「めまい感」は、ややドラマティックな波として圧倒的に訪れるのに対し、ピサロの「めまい感」は、もっと自然で、いつの間にか透明な気体に吸い込まれていくかのように、静かに訪れる。Wandelweiserから出ている他の作品もぜひ聴き込んでみたいと思う。「この音楽は素晴らしい」と思えるアーティストや作品に出会えたのは、考えてみたら、ものすごく久しぶりのことなので、とても嬉しい。(ちなみに、erstwordsには、マイケル・ピサロが書いたWandelweiserについての話が掲載されています。)

そういえば、学生の時に初めて村上春樹の小説(『1973年のピンボール』)を読んだ時、それまで自分を取り巻いていた空気の質ががらりと変化したように感じたことがあった。長い間淀んでいた重たい空気が、さっとマイナスイオンに浄化されたかのように、耳に聞こえる風の音も空気の匂いも、急に清々しく透明になったような気がした。マイケル・ピサロの作品を聴いた後に感じたことも、この体験に少し似ている。音楽を聴き終わり、しばらく時間が経った後も、自分の周りの環境音が音楽の一部であるかのように聴こえてくるのだ。窓の外の車の音や室内の暖房の音、パソコンが発する静かなノイズ、そうした今まで単なる外部音として聴いていた音が、不思議に調和して音楽作品のように聴こえてくる。それまで混沌としていた周囲の空気の中に、美しい静けさと調和が生まれている。これは、とても貴重な体験のような気がする。自我を脱却した真っ白な境地で生まれる音楽とは、こういうものなのかもしれない。

Michael Pisaro - Transparent City (Volumes 1 and 2) (EWR 0706/07) 和文


2004年12月から2006年8月にかけて、ロサンゼルスでフィールドレコーディングされた音源に、サイン音がミキシングされている。各トラックは、1カ所で録音された無編集の10分間で、それぞれ最後に2分間の沈黙が加えられている。車の行き交う音、ヘリコプターや飛行機が頭上を通り過ぎる音、小鳥のさえずり、浜辺で遊ぶ子供達の声、駅の構内のざわめきなど、ごく日常に聴こえてきそうな音が、ごく日常で聴こえてくる音量で再生される。それゆえか、実際に外で聴こえている音も、音楽の一部のように聴こえてくる。突出せずに抑えられた音量が、自分とフィールド音との間に程よい距離のある空間を生んでいて、その「少し離れた遠くで何かが起きている」という感覚がとても心地よい。

Volumes 2では、全体的に音量がやや大きめに設定され、5曲目では、飛行機が頭上を通りすぎる音が迫力ある音量で再生され、そこにかぶさるサイン音の重低音と共に、不穏な空気を含んだ轟音がじわじわと迫り来る。それまでの心地よい距離感がここでは一変し、フィールド音と聴き手の自分との間の壁が次第に取り払われていくかのように、音と聴き手である自分が重なり合い、両者の間に一体感が生まれる。この作品のクライマックスともいえる所であり、音楽と聴き手の間の距離感というものが、いかに心理的に影響するものなのか、改めて気づかされる瞬間でもある。が、終始、現実音の生々しさのようなものは、そこには不思議とない。顔面にぶつかってくるような角のあるフィールド音ではないがゆえに、音のすき間にふとした「ぶれ」や「揺れ」が生まれ、その空気中に生まれる「ぶれ」や「揺れ」が、微妙に投じられたサイン音と重なり、静かなパワーを持っていつしか耳を釘付けにする。(ピサロのサイン音の使い方には、日本人の細やかな感性を思わせる繊細さがあるのにも驚かされる。)

ピサロは、環境音とサイン音を絶妙のバランスで融合させることで、作品全体を調和のとれた音楽のように聴こえさせている。それはまるで、細部の音に注意深く耳を傾けながら演奏するミュージシャンたちの息の合った見事な共演を聴いているようだ。各トラックの最後の2分間の沈黙は、脳の中に音の余韻がまだ残る中、「かすかにぶれた非現実空間」から「現実空間」へ、ゆっくり時間をかけて舞い降りていくような感覚があって、とても良い。


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Michael Pisaro - Transparent City (Volumes 3 and 4) (EWR 0708/09) 和文


2006年10月から2007年2月にかけて、ロサンゼルスでフィールドレコーディングされた音源が素材になっている。自宅スタジオでサイン音を加えてミキシングされたこと、各トラックは1カ所で録音された無編集の10分間であること、それぞれ最後に2分間の沈黙が加えられている点などは、前作の『Transparent City (Volumes 1 and 2)』と同様の手法である。

音程の異なる複数のサイン音が重なり合い、フィールドレコーディングの環境音の妨げにならない控えめな音量で、全体の音風景の中にしっくりと融合しつつ、時には真っ直ぐに、時にはゆるやかな曲線を描きながら貫いていく。このサイン音の変化や動きの幅が前作2枚よりも大きい。雨に濡れた路面できしむ車のタイヤの音、クラクション、カモメの鳴き声などのフィールド音も、 ややくっきりと浮かび上がり、前作よりも間近にリアルに感じられる。

Volumes 3の5曲目が特に美しい。ひそやかに降る静かな雨音、雲の上を通りすぎる飛行機のくぐもった鈍い音、カモメの声。そのしんとした音風景の後半、雨音に紛れて忍び込むようにトーンの異なる複数のサイン音が静かに入り、雨音の合間に見え隠れしながら消えたり立ち現れたりする。それらすべての音が、ぴたりと息の合った演奏家たちの共演のように、完ぺきなバランスを保っている。それに続く6曲目では、やや大きめの音量で、スコールのように激しく振る雨音が眼前に迫り、5曲目よりぐっと聴き手との距離を縮める。

Volumes 4の1曲目は、居心地のよいレストランの店内と思われる場所で、人々のくつろいだ話し声に混じって、皿や鍋がぶつかりあう音が聴こえる。学校のチャイムのような音も遠くで鳴っている。ここでは、曲ごとの音量が前作より変化に富むようになり、外部音と聴き手の距離が、近づいたり離れたりする幅が大きくなる。ラストのトラック6は、大きめの音量で始まり、やがて後半終わり近くになると音量が小さくなっていき、再び「どこか遠くから聴こえてくる音」に戻り、最後には沈黙の中にすべてが吸い込まれる。このエンディングがとても美しい。

それぞれの曲の音量や距離感が微妙に、あるいは大きく変わっても、様々なトーンや音量で重なるサイン音の響きが、その凛とした存在感であらゆる場所をひとつに結びつけ、全体を「わずかにずれた非現実空間」へと運びつつ、長大なアンビエント音楽として生まれ変わらせる効果を出している。各々の場所に違う時間に立ち、その場の音を記録し、それらの音と共演すべく注意深く選び抜かれたサイン音を挿入してミキシングし「作曲」する…というピサロの一連の行為を通して、「すべての場所が繋がっている」という一体感(見えない糸で全風景を繋げる役割を果たすサイン音を共有することにより、ピサロが立っていたフィールドレコーディングの各場所のみならず、聴き手のいる環境すらも音楽の一部になる感覚)を、4枚のCDから成る作品全体が、呼吸をするように自然なうねりで伝えている。


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